日曜日の説教

愛とは何でしょうか (5月18日2025年) ジョン神父

人は、愛によって創造され、生まれてきました。だからこそ、「愛されている」と感じて初めて、本当の幸せがわかります。たとえ生活が苦しくても、心に愛があれば、喜びと充実感を持って生きることができます。これは貧しさを美化するわけではなく、「愛はお金や物によっては得られない」という真実を伝えたいのです。しかし、今の社会では「愛」が誤って理解されがちです。「あなたが優しくしてくれるなら、私もそうする」「あなたが尊重してくれるなら、私も受け入れる」といった「取引のような愛」が当たり前になっています。でも、イエスが教えてくださった愛は違います。イエスの愛は、積極的で、犠牲的で、無条件です。私たちがまだ弱く、迷い、主を裏切っている時にも、イエスはすでに私たちを愛し、十字架にかかって命を捧げてくださいました。「そんな愛は難しすぎる、私には無理だ」と思うかもしれません。でも、問題は「愛が難しすぎる」ことではなく、「私たちがイエスの愛を本当には体験していない」ことにあります。自分の中に愛がなければ、他の人に愛を与えることはできません。癒やされていなければ、人を受け入れたり、許したりすることも難しいのです。

遠く離れても、愛はそばに……… さよなら……. 🙏 🙏 ✝️ ❤️

さよなら……. 🙏 🙏 ✝️ ❤️

良い牧者の主日 (5月11日2025年) ジョン神父

私たちの信仰の道は、私たちが先にイエスを見つけたのではなく、イエスが先に私たちを呼んでくださったのです。イエスは私たちをよく知り、愛し、名前を呼んでくださるのです。その声は私たちを責めるのではなく、優しさと愛、そして深い思いやりに満ちています。イエスは、私たちが弱っているとき、倒れそうなときに、それをよくご存じで、まるで冬に生まれたばかりの子羊を羊飼いがタオルで拭いて室内に抱いて帰るように、私たちを優しく抱きかかえてくださいます。しかし、現実の中で私たちはしばしば忙しい生活に追われ、世の中のさまざまな声に心を奪われ、次第にイエスの声が聞こえなくなってしまいます。かつてイエスが私たちを優しく抱いてくださったことや、そっと名前を呼んでくださったことを忘れてしまうのです。誘惑に満ちた世界に引き込まれ、群れから離れ、危険な場所に迷い込んでしまいます。この世界には多くの混乱した声があります。それは欲望から来る声、偽物の牧者の声、あるいは悪霊からの誘いの声です。

ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか (5月4日2025年) ジョン神父

今日、私たちが心の虚しさや道に迷う感覚を覚える時、私たちもまた反省すべきでしょう。主の臨在を見失ってはいないか? 主の言葉を心から手放してはいないか? なぜ主は私たちの内にとどまれないのでしょうか?ペトロとイエスの対話がその答えを示しています。それは、私たちが主の愛をまだ真に体験していないからかもしれません。あるいは、十分な悔い改めができず、心を開いて主の愛を受け入れることをしていないからかもしれません。「あなたは、わたしを愛しているか。」今日もなお、主は私たちに優しく問いかけています。私たちはしばしば自分を恥じて、主を直視できず、返事をためらうかもしれません。それでもなお、私たちは耳を澄ませて主の呼びかけを聞き、信仰をもってこの命の賜物を受け取るべきです。主の愛が私たちの心にしっかり根付く時、私たちの人生は本当の意味を見出し、福音を伝える者となれるのです。私たちは常に自問しましょう。「わたしは主を愛しているだろうか?」主の愛が私たちの心にとどまる時、私たちの人生は本物の光と希望に満たされるのです

A SONG FOR POPE FRANCIS – SHEPHERD IN WHITE (Tribute Song for Pope Francis)

“Shepherd in White” by Slepyer Music is a heartfelt acoustic tribute to Pope Francis—a humble shepherd who led with compassion, justice, and faith. From Buenos Aires to Rome, this original Pilipino music (OPM) track captures the journey of a spiritual leader who walked with the poor, healed with mercy, and taught the world that true power lies in service. Written by Rey Pelpinosas and produced with the help of AI tools, this inspirational acoustic ballad blends soft melodies with powerful lyrics to honor the life and legacy of Pope Francis. A song for reflection, prayer, and hope.

わたしを愛しているか (4月29日2025年) ジョン神父

わたしに従いなさい ヨハネ21:1ー19 キリストの愛と招きに応える歩みをテーマに、福音のメッセージ、信仰の証し、祈りや霊的な分かち合いをお届けします。忙しい日常の中で、イエスの声に耳を傾け、「従う」という選択の意味を一緒に深めていきましょう。

また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。(復活祭第2主日) (4月27日2025年) ジョン神父

この世は「目に見えること」を重視します。私たちも、目で見えるものこそ真実だと信じがちです。しかし、人生で本当に大切なものは、たいてい目には見えません。愛、喜び、平和、希望、信頼。イエスは言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである。」 復活したキリストとの出会いを通して、疑いから信仰への歩みを分かち合う場所です。主の傷に触れ、真の平和と信仰を見出したトマスのように、あなたもイエスとの深い出会いを体験しませんか?聖書の分かち合い、祈り、信仰の証しを通して、あなたの霊的旅路に寄り添います。次のビデオ    • 死は終わりではなく、真の終わりは主に忘れ去られること(復活祭の主日)  

死は終わりではなく、真の終わりは主に忘れ去られること(復活祭の主日) (4月20日2025年) ジョン神父

兄弟姉妹の皆さん、キリストは死に打ち勝ち、私たちに永遠の命への道を開いてくださいました。この復活祭にあたり、私たちもまた目を上げて、永遠に続く天上の命に心を向けましょう。天上こそが、私たちの真の故郷なのです。かつて、墓は死のしるし、絶望の暗闇でしたが、今では復活されたキリストによって、「からの墓」は希望のしるし、新しい命の始まりとなりました。もう死を恐れることはありません。真に恐れるべきは、主に忘れ去られることです。しかし、主を信じて主に従う私たちは、決して主に忘れられることはありません。主は私たちを覚え、私たちの名を呼び、そして永遠の命の門を開いてくださっているのです。復活された主イエスが、すべての人に光と希望と喜びを与えてくださいますように。アレルヤ!主はまことに復活された!アレルヤ!

苦しみと信仰  受難の主日(枝の主日)(4月13日2025年) ジョン神父

人間の力だけでは、苦しみを受け入れ、耐えるのは難しいことです。しかし信仰があれば、私たちは苦しみを通してイエスをより深く知ることができます。ですから、キリストの救いの泉から水を汲み取り、イエスに導かれ、祝福されながら歩んでいきましょう。信仰の生活の中では、不完全な環境も人も受け入れやすくなり、キリストの受難の意味をさらに深く味わうことができるようになります。そして、それを自分の日常生活に具体的に生かすことができるのです。そうすることで、私たちは苦しみという洗礼を通して成長し、神により近づくことができるでしょう。

一つの石と一人の女性の物語 (四旬節第5主日) (4月6日2025年) ジョン神父

今日の福音は私たちに問いかけます。私たちはこれまでに「石」を持ち上げ、誰かを傷つけたことはないでしょうか?イエスは、苦しみや罪の重圧に押しつぶされそうな人々に対し、冷酷で無情な「石」を投げることを許されませんでした。私たちもイエスに倣い、寛容と憐れみの心を持ち、困難にある人々に寄り添い、励ましと希望の光となる者でありたいと願います。日常生活の中で、私たちが他者を裁くのではなく、理解と赦しの心を持ち、互いに支え合うことができますように。

放蕩息子のたとえ話  四旬節4主日C (3月30日2025年) ジョン神父

四旬節は、私たちすべてのクリスチャンにとって、天の御父のもとに帰る時期です。私たちもこの放蕩息子のように、かつては反抗的で、わがままで、時間を無駄にし、世俗の楽しみに夢中になっていたかもしれません。しかし、天の御父はいつでも私たちが悔い改め、帰って来るのを待っておられます。放蕩息子が家に帰って来たとき、父親は息子を責めることなく、しっかりと抱きしめ、口づけをし、一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、身分を示す指輪を与えました。下の息子の身分は変わることなく、依然として父親の息子であり、もはや放浪者でなく、家の継承者でした。天の御父のもとには、恥じるべきものは何もありません。あるのは、ただ無限の受容と慈しみです。どのような過去があったとしても、天の御父のもとに帰るならば、尊厳を取り戻し、本当の命を得ることができます。私たちはもうすでに悔い改め、天の御父の家に戻っているでしょうか?それとも、いまだに迷い続けているのでしょうか?今日、私はすべての兄弟姉妹に呼びかけます。悔い改めて天の御父のもとに帰りましょう。

悔い改めを求め (四旬節第3主日)(3月24日2025年) ジョン神父

その後、イエスは「いちじくの木」のたとえを語ります(ルカ13:6-9)。私たち一人ひとりは一本の木のような存在であり、神は福音書を聞いた者が豊かな実を結ぶことを望んでおられます。神が求めているのは、外面的な宗教的儀式や形式的な行いではなく(春には、いちじくの木は葉が生える前に実を結びます)、愛の行いを実践することです。このたとえ話は、四旬節が神の恵みの時であり、私たちに与えられた新たな一年、かけがえのない機会であることを思い起こさせます。だからこそ、私たちは悔い改め、良い実を結ぶために努力しなければなりません。この時を無駄にせず、生き方を見直し、神の望まれる道を歩んでいきましょう。

三つの天幕の物語 (四旬節第2主日)(3月16日2025年) ジョン神父

人は偶然この世に生まれたのではなく、それぞれが使命を持って生まれてきました。同様に、イエスの到来も神の計画の一部であり、イエスは人類を救う使命を担っていました。イエスはエルサレムで逮捕され、苦しみを受け、十字架につけられ、そして復活することになります。弟子たちも選ばれましたが、彼らはまだその使命を十分に理解しておらず、その途中で多くの迷いや対立が生じました。 天幕と天からの声は、私たちに大切なことを教えています。それは「快適な場所に留まるのではなく、勇気を持って前に進むこと」です。天幕は一時的な祈りと休息の場を象徴しています。しかし、いつまでもそこに留まるわけにはいきません。私たちはその先へと歩みを進め、使命に向き合わなければなりません。神の言葉に耳を傾けることは大切ですが、それだけが信仰生活のすべてではありません。教会や黙想の場に留まるのではなく、外に出て、兄弟姉妹に仕え、苦しむ人々を助け、愛を必要としている人々に寄り添うことが求められています。

イエスと悪魔の対話 (四旬節第1主日) (3月9日2025年) ジョン神父

三つ目の誘惑:神を試すこと――信仰への挑戦。最後に、悪魔はイエスをエルサレムの神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。神は天使に命じて、あなたをしっかり守らせる。また、あなたの足が石に当たることのないように天使たちは手であなたを支える」(ルカ4:9-11)この誘惑は人と神との関係に直結し、信仰への疑いを表しています。人生の中で、私たちは困難に直面すると「神が本当に愛しているなら、なぜ私が苦しまなければならないのか」と文句を言いがちです。これはまさに悪魔が望むこと神への疑いを抱かせ、神への信頼を揺るがすのです。イエスはお答えになった。「あなたの神である主を試してはならないと言われている」(ルカ4:12)自分の基準で神を試すのではなく、神の愛を信じることが大切です。

盲人が盲人の道案をすることができようか (年間主日第8主日)(3月2日2025年) ジョン神父

事実、盲人とは、単に身体的に視力を失った人だけではありません。心と知恵を失い、方向を見失っている人こそ、真の盲人なのかもしれません。聖パウロはコリントの信徒への手紙の中でこう言います。「この死ぬべきものが死なないものを着るとき」(1コリント 15:54)。私たちはしばしば物質的なものに執着し、霊的な命の深さを忘れてしまいます。物質はいつか消え去ります。私たちを真の光へと導くのは、信仰と知恵だけなのです。イエスは福音書の中でこう語られました。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか」(ルカ 6:39)。もし、私たちの霊的な導き手が盲目であるなら、私たち自身も迷い、道を見失ってしまうでしょう。たとえ目は健常であっても、私たちは盲目になり得るのです。愚かで、衝動的で、誤った判断にとらわれてしまうことがあるからです。まず自分自身の足りなさを自覚しなければ、真の成長へと進むことはできません。

逃避をするのでなく、勇敢に挑戦する 年間第7主日 (2月23日2025年) ジョン神父

しかし、成長の道は、一つ一つの小さな試みによって築かれます。すぐに許すことができなくても、まずは心の中の恨みを手放し、それに囚われないことが大切です。まず、自分の高慢な心を認め、謙遜を学ぶこと。人は本来弱い存在であり、この世のすべては一時的なものです。死後に何一つ持っていくことはできません。それなのに、なぜ私たちは憎しみや恨みに執着するのでしょうか。次に、相手のために祈ることです。 たとえすぐに許せなくても、相手を神に委ね、祝福を願うことができます。他者のために祈ることができるようになったとき、私たちの心は少しずつ開かれ、周りの争いや評価に囚われなくなります。他人の言葉に過度に反応せず、愛をもって異なる意見に耳を傾けることができるようになれば、私たちは本当に成長したと言えるでしょう。

すべてを捨てて、本当の幸せを見つける 年間第6主日 (2月16日2025年) ジョン神父

幸せは、私たちが何を持っているかではなく、どのような選択をするかによって決まります。イエスの弟子たちは短期間でイエスを知り、イエスに従う決断をしました。当然ながら、中には離れていった人もいました。「選択」「期待」「優先順位」の三つの要素が、私たちの幸福感に大きく影響を与えます。弟子たちもこれらのことで悩みましたが、最終的に彼らは世俗的な「幸福」の幻想を手放し、イエスに従う道を選びました。なぜなら、イエスが与えたものは、単なる「幸福」ではなく、「人生の変革」だったからです。「すべてを捨てる」という行為自体が幸福をもたらすわけではありません。しかし、イエスに従うことを選択した時、イエスは私たちを「本当の幸せ」へと導いてくださいます。それは、物質を超え、世間の価値観を超えた、神からの永遠の喜びなのです。私たちが追い求めている「幸せ」は、本物の幸せでしょうか。それとも、一時的な満足に過ぎないのでしょうか。弟子たちのように勇気をもって決断し、イエスを私たちの人生の主とすることができますように。そして、神の与える真の幸せへと歩んでいきましょう。

「沖に漕ぎ出して、網を降ろし、漁をしなさい」年間第5主日(2月9日2025年) ジョン神父

イエスの召命と私たちの使命:イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後あなたは人間をとる漁師になる。」(ルカ5:10)。聖書では、「海水」は悪の力や死を象徴します。「シモンが漁をしてとるべき人々」とは、悪習や偶像崇拝、欲望に縛られている人々のことです。イエスは「漁師」として、絶望と罪の深みにいる人々を救い出すよう私たちを召し出しています。人々を真理と光に導く役割を私たちに委ねています。  私たち一人ひとりも、イエスと同じ舟に招かれています。自分に自信を持ちすぎるときこそ、シモンのように謙虚に神の言葉を聞き入れ従うことを学ぶ必要があります。私たちもまた神を信頼し、舟を沖に漕ぎ出すなら、生活の中で必ず豊かな実りを得ることができるでしょう。

主の奉献 年間第4主日C年 (2月2日2025年) ジョン神父

主の奉献の典礼で注目すべきは、マリアとヨセフではなく、年老いた二人の人物、シメオンとアンナです。彼らは老人ホームに住んでいたのではなく、神殿に住むことを選びました。彼らが日夜神殿にいる唯一の目的は、救い主を待つことでした。年老いてもなお、心には希望と期待が満ちていました。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2:28-30)。一方、アンナは夫を亡くした後、神殿を離れず、断食したり、祈ったりして、夜も昼も神に仕えて救い主メシアの到来を待ち続けていました。(ルカ2:37)アンナはイスラエルの民の忠実さを象徴しています。彼女にとって、ついに待望の救い主を見るという希望が実現しました。彼らの待ち望む姿勢は決して受動的なものではありませんでした。祈りを絶やさず、信仰を強く持ち続け、救い主の到来を待っていたのです。この忍耐と信仰は、私たちが深く 考え、学ぶべき姿勢です。

聴きたくないのか(神のことばの主日)ー聴く能力ー (1月26日2025年) ジョン神父

イエスがお育ちなったナザレの会堂に来られた時、預言者イザヤの巻物が渡され、朗読しました(イザヤ61:1)。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して宣言されました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」 (ルカ4:21)。しかし、このイエスの宣言は会堂内に大きな騒ぎを引き起こしました。後にイエスは有名な言葉を残されました。「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)。ナザレの人々がイエスを拒絶したのは、彼らがイエスの言葉を本当に聴き取らず、理解しなかったからです。さらに言えば、彼らの心は既に自分たちの望むものに固執していました。しかし、神の言葉はしばしば私たちに挑戦を与えるものです。謙虚な心で神の言葉を聴くことを学ばなければ、神との関係を築き神を理解し他者や自分自身を理解することはできません。私たち一人ひとりが謙虚な心で神の言葉を聴くことを学び、神のことばを心で聴き、黙想することで、神の言葉が私たちの心に深く入り、私たちの人生を喜びで満たしていただけるよう祈りましょう。+

カナ婚礼 年間第2主日C年 (1月19日2025年) ジョン神父

この福音書から、結婚生活が始まる前でさえ、多くの問題が起こり得ることがわかります。私たちが直面する家庭の責任、子どもの教育、経済的な負担、夫婦の間の感情的な問題など、これらは結婚生活の「ぶどう酒」を減らし、枯渇させる原因となります。「ぶどう酒がなくなりました」という母マリアの言葉は、私たちの日常生活における「どうすればいいのか」という悩みを象徴しています。カナの婚礼の物語は、人生における喜びと祝福の源である「ぶどう酒」が、神の言葉から来るものであることを教えてくれます。神の言葉に導かれた家庭、神を迎え入れ、神の言葉を聴き続ける家庭は、喜びの「ぶどう酒」に事欠くことは決してありません。イエスだけが生ける水を与えることができ、イエスの生ける水が最高のぶどう酒に変わり、私たちを喜びで満たしてくれるのです。結婚生活や日常生活のどのような挑戦、困難においても、カナの婚礼から多くのことを学ぶことができます。イエスを信頼し、イエスの言葉を聴き、私たちの人生に喜びの源である生ける水を迎え入れましょう。

主の洗礼 天が開かれた C年 (1月12日2025年) ジョン神父

今日の福音書(ルカ3:21)では、イエスが洗礼を受けたときに「天が開かれた」と描かれています。この場面は、神が民の祈りを聞き入れられたことを象徴し、天の門が永遠に開かれたことを意味します。それ以降、神は慈しみ深い父として私たちを迎え入れてくださり、神に帰ってくることを望むすべての子供たちを受け入れてくださいます。 イエスの洗礼は、神の愛を啓示するものであり、もはや神は恐れや畏敬だけの存在では なく、赦しと受容の父なる神を示しています。 イエスの洗礼は、イエスの使命の始まりであると同時に、私たち一人ひとりに 向けた招きでもあります。私たちもまた、自らの道を整え、神の到来のための場を心に 準備する必要があります。イエスの行動を見習い、父なる神のように受容の心を学び、周囲の人々を受け入れることが私たちの使命です。主の洗礼の主日において、私たちは単に イエスの洗礼を祝うだけでなく、自らの命を新たにし、神がこの世に愛と平和をもたらすための道具となるように招かれています。私たち一人ひとりが、神の愛の証人となり、 神の召きに応える者となることができますように。神の永遠の家にたどり着くその日  まで、神と共に歩む旅を続けていきましょう。

主の公現 C年 (1月5日2025年) ジョン神父

今日、主の公現を祝います。今日の福音書の中で(マタイ2:1−12)、星という 重要なテーマが登場します。星は夜の道しるべであり、イエス・キリストを象徴しています。星は太陽の光を反射して地上を照らしますが、世界に救いの光をもたらすのはイエスご自身です。不信、憎しみ、苦しみなど、さまざまな闇に満ちています。しかし、イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と言われました。イエスを通らなければ、私たちは本当の命を見つけることができません。主の公現の光は、世の人々に希望を示し、私たちに帰るべき道を指し示してくれる明かりです。

聖家族 (12月25日2024年) ジョン神父

家庭において、親は愛と教育の中心です。しかし、時に親は愛を正しく理解できず、教育の仕方を間違い、子供への溺愛や過保護、あるいは虐待につながります。このような行為は善意から来ているものの、無意識のうちに子供の成長を制限し、子供は外部の挑戦に立ち向かう能力に欠け、親から独立して人生の荒波に対処することができなくなる恐れ、心配があります。したがって、家庭の大切な機能は単に子供を守るだけでなく、 現実に直面し、他者を受け入れ、子供に独立性を養う方法を教えることにあります。家庭は愛の港であるが、現実逃避の避難所ではありません。家庭は子供が成長するゆりかごであるべきですが、同時に子供が未来に向き合うための掛け橋になる必要があります。家庭の中で、子供は兄弟姉妹との関わりを通じて、包容、受容、許しを学び、同時に協力し助け合うことの価値を悟ります。これらの経験は、子供が愛情の中で成長するのを助け、より広い世界に立ち向かう勇気と能力を子供に与えます。親は成熟した人格と堅固な信仰をもって子供に寄り添い、両親のいる家庭であれ、片親の家庭であれ、親の模範の力で子供を導くべきです。

降節第四主日「神の恵みを分かち合う喜びと飛翔 」 (12月22日2024年) ジョン神父

ミカ5:1−4a ヘブライ10:5−10 ルカ1:39−45 エフラタのベツレヘムは小さくとも偉大。主は言われる。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。」(ミカの預言5:1)。世の中では、ベツレヘムは取るに足りない、小さくて卑しい土地の象徴と見なされ、貧しく無視される存在と見なされることもあります。しかし、神の御業は常に人間の思いを超えています。神は人の目に弱く取るに足りないと思えるものや人を用いて、偉大な計画を成し遂げられるのです。

待降節第三主日「愛の行い」 (12月15日2024年) ジョン神父

ゼファニヤの預言3:14−17 フィリピ4:4−7 ルカ3:10−18 洗礼者ヨハネは誠実な人物であり、地位や名誉、称号を求めることは一切ありませんでした。自分がキリストでもエリヤでもなく、ただ「主のために道を備える者」であることを明確にし、自らの使命を全うしました。イスラエルの民は長い間救い主メシアを待ち望んでいましたが、いざメシアが現れると、その正体を認識することができませんでした。宗教的指導者たちが植え付けた誤った教えが、イスラエルの民の目を覆い、心を重くしていたのです。人々は自らを「聖なる民」と考え、他の民族と交わることを避けてきました。彼らが待ち望んだのは、自分たちのために戦うメシアであり、異邦人を滅ぼす存在でした。しかし、洗礼者ヨハネはそのような偏見に閉ざされた人々の目を開かせ、真実を伝えました。

待降節第二主日「悔い改める」 (12月8日2024年) ジョン神父

バルク5:1−9 ルカ3:4−6    旧約聖書のイスラエルの民は神の約束された地に着く前に、必ずヨル ダン川を渡らなければなりませんでした。今日の福音書(ルカ3:1-6)では、洗 礼者ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼をさずけていました。洗礼者ヨハネの洗 礼とイエスの洗礼とではその意味が違います。洗礼者ヨハネの洗礼は悔い改め の洗礼だけで、この洗礼は自分の罪を悔い改めるしるしでした。私たちは、家族など周りの人々との間で問題を抱えることがあるかもしれません。また、日々の生活の中で自分の過ちや傷を経験することもありますが、それでも他者との関係を再構築しようと努力します。これもまた、私たちが成長するための機会なのです。

待降節が始まり、今年も早く過ぎ去ろうとしています。待降節は、教会における新年ともいえる時期です。「待降節」という言葉はラテン語で「来る」という意味を持ち、イエス様が私たちのもとに来られることを意味します。イエス様は私たちのために三度来られます。第一回目は、イエス様が人間として来られた時です。第二回目は、イエス様が来られる時、すべての人を裁かれることを意味します。そして第三回目は、日々イエス様が私たちの生活の中に来てくださることです。私たちが毎日ミサに参加するたびに、イエス様が近づき、共に生活を築く機会を与えてくださいます。

年間第34主日 「王であるキリストは愛と思いやりの神」 (11月24日2024年) ジョン神父

「王」という言葉を聞くと、国家元首や大統領、さらには権力、地位、戦争、欲望といったものを自然に連想することが多いです。実のところ、私たち一人ひとりがこの世に生まれ、人生という舞台に立つ主役でもあります。そして、過ぎ去った時代や帝国のように、やがては私たちの名前も忘れ去られるかもしれません。しかし、神の王国だけは永遠に続き、消えることはありません。 皆さんは人生の中で、誰かに褒められたことはありますか。また、挫折や失意を経験したことはありますか。人生の頂点に立つとき、どうか今まで背後で支えてくださり、導いてくださった神様を忘れないでください。成功に至ったのは、神様があなたを選び、祝福してくださったからです。

年間第33主日 「恐れや不安に打ち勝つ方法」 (11月17日2024年) ジョン神父

私たちの人生において、恐怖や不安を感じることがあるでしょう。恐怖と不安は人間に非常に大きな害をもたらし、肉体を損なうだけでなく、人生の方向性も見失わせます。人は恐怖の中で理性を失い、誤った判断をしやすく、他人の発言や考えに流されやすくなります。方向を見失うと、さまざまな偶像に走り、自己中心的で、冷酷、残忍な行動に迷い込むこともあります。近年の出来事を振り返ると、新型コロナウイルスの流行から始まり、人々はウイルスの脅威にさらされる中で自分を守るためにさまざまな対策を講じましたが、それが人と人との間に隔たりを生み出しました。例えば、ワクチン接種に関して賛成派と反対派の間で意見の相違や論争が生じ、世界中の人々がマスクを着用し、真のコミュニケーションが失われました。また、国々の間で戦争や侵略が起こり、多くの人が独裁者の欲望のために命を落としました。 私たちは誰でもさまざまな苦難を経験し、人生の中で希望を失うことがあるかもしれません。しかし、今日の福音書(マルコ13:26-27)にはこうあります。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」イエスのこの言葉は非常に慈愛に満ちた慰めであり、私たちに信仰と希望を失わないよう促しています。イエスは常に私たちと共におられ、最後の日に私たちを迎え入れてくださるのです。ですから、私たちは恐怖と不安を捨て、全身全霊で主に信頼することを学ばなければなりません。

年間第32主日 「信仰とは冒険」 (11月10日2024年) ジョン神父

信仰における「冒険」とは、勇気を持って挑戦し、時には自分自身を手放すことを意味します。今日の第一朗読(列王記上17:10-16)では、エリヤ預言者と一人の貧しいやもめの物語が紹介され、信仰と寛大さが描かれています。このやもめは家にわずかな小麦粉と油しか残っていないにも関わらず、それをエリヤに差し出します。彼女は預言者が伝える神の言葉を信じたのです。当時イスラエルでは、多くの人々が祖先の信仰を捨て、バアルを拝んだために、干ばつや飢饉に見舞われていました。その厳しい状況の下で、やもめはエリヤに対し、自分と息子は残りの食べ物を食べ終えたあとは、死ぬのを待つばかりだと告白します。しかし、奇跡は起こります。彼女がエリヤの言葉を信じたことによって、彼女たちは家の食べ物が尽きることなく生き延びることができました。彼女は異邦人で、まだ神を知らないものの、「エリヤの神」を敬い信頼しました。彼女の信仰と献身は、私たちが学ぶべき信仰の冒険の象徴です。

年間第31主日 「愛と掟」 (11月3日2024年) ジョン神父

神は私たちに、自己愛、他の人への愛、そして神への愛を学ぶように招いておられます。それこそが、神への最善の応答です。イエスはファリサイ人たちに、ホセア預言者の言葉を引用してこう言いました。「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(マタイ9:13)。この言葉は、愛こそがすべての掟の基盤であり、信仰生活の核心であることを示しています。今日、主は私たちを招くことは、私たちの信仰が生活にしっかりと根づいているかを省みましょう。そして、日々の生活の中で愛の掟を実践できているかを自らに問いかけましょう。愛に満ちた信仰によってこそ、私たちは神の愛の中で真の自由と平和を見いだせるのです。

年間第30主日 「目があっても見ようとしない」 (10月27日2024年) ジョン神父

バルティマイの体験は、私たちに重要なことを教えてくれます。どんな状況にあっても、私たちは信仰を持って待つのです。機会が来たらそれを掴む勇気を持たなければなりません。人生が変わるのは、ほんの一瞬の勇気かもしれません。多くの人が、生活の困難に押しつぶされて心の目を閉ざしてしまいますが、私たちは神に祈り、光を探し出す勇気を与えていただかなければなりません。そして、生活のあり方を根本から変え、目を覚まして新たに生きることが求められています。もはや曖昧に日々を過ごすのではなく、確かな信仰をもって歩んでいくべきなのです。今日から私たちもバルティマイのように、困難の中でも希望を持ち、訪れるチャンスを掴み、人生の新たな方向を見出せるように歩んでいきましょう。

年間第29主日 「欲望と権力」 (10月20日2024年) ジョン神父

私が今でも忘れられない夫婦の物語をお話します。10年前、信仰を持つ二人は、

結婚当初とても円満でした。特に奥さんは美しく才能にも恵まれていたので、教会内で非常に人気があり、積極的に教会の様々な活動に参加していました。しかし、時が経つにつれ、彼女の優秀さが原因で、夫は次第に激しい嫉妬を抱くようになり、遂には家庭内暴力にまで発展してしまいました。ある日、彼女はサングラスをかけてミサに参加しました。実は、その数日前に夫から暴力を受け、目が腫れ上がって人前に出られない状態だったのです。教会内では評判の良い彼女が、家庭内では夫の強い支配欲によって、大変な苦しみに陥っていたとは、悲痛なことです。この悲劇は、多くの家庭や社会において、人々が「権力」を追い求めることが、いかに幸せを壊すかを私たちに教えてくれます。

今日の福音書(マルコ10:35-45)では、権力への欲望が引き起こす危機について私たちに教えてくれます。イエスの12人の弟子たちの中で、2人の弟子が権力を求めたことで、弟子たちの間に対立が生じました。ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスの前に進み出て、イエスに言いました。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが「何をしてほしいのか。」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」この対話は、弟子たちが心の奥底で権力と栄光をどれほど切望していたかを示しています。彼らが求めたのは、人にどのように奉仕するかではなく、いかにして自分が人よりも高い地位に就くかということでした。彼らは人に仕える役割よりも最も輝かしい地位を望んだのです。しかし、イエスの答えは彼らの考えを完全に覆しました。イエスは、天の国において「権力」の本質は支配ではなく、奉仕であると示されました。偉くなりたい物は、皆に仕える者になること、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になることを求められたのです。

イエスは弟子たちの内面的な葛藤を理解し、このような権力への欲望がどれほどの破壊を招くかを知っておられました。そのため、イエスは繰り返し弟子たちに教えました。真の力は奉仕の中にあり、謙遜の中にこそ、家庭、教会、社会の調和を築く力があると。この教えは、当時の弟子たちに向た警告であると同時に、私たち一人ひとりへのメッセージでもあります。私たちが追い求めるものは、自分のための栄光か、それとも他者への祝福か、今一度問い直してみる必要があります。イエスはご自身の命をもって、権力の本質、真髄を私たちに示されました。真の権威は、人を支配することではなく、自らを捧げること、奉献にあります。今日の黙想を通して、私たちが家庭、仕事、社会において、権力と欲望に対する自分自身の態度を見直すことができるようにしましょう。

イエスは弟子たちの内面的な葛藤を理解し、このような権力への欲望がどれほどの破壊を招くかを知っておられました。そのため、イエスは繰り返し弟子たちに教えました。真の力は奉仕の中にあり、謙遜の中にこそ、家庭、教会、社会の調和を築く力があると。この教えは、当時の弟子たちに向た警告であると同時に、私たち一人ひとりへのメッセージでもあります。私たちが追い求めるものは、自分のための栄光か、それとも他者への祝福か、今一度問い直してみる必要があります。イエスはご自身の命をもって、権力の本質、真髄を私たちに示されました。真の権威は、人を支配することではなく、自らを捧げること、奉献にあります。今日の黙想を通して、私たちが家庭、仕事、社会において、権力と欲望に対する自分自身の態度を見直すことができるようにしましょう。

年間第28主日 「富と不安」 (10月13日2024年) ジョン神父

 以前、ある夫婦が家族カウンセリングを受けた際に、彼らの話を分かち合ってくれたことを思い出します。10年前、彼らは結婚して新しい都市に移り住み、仕事を始めました。生活は質素で、苦労もありましたが、互いに支え合い、愛し合っていました。そして子供が生まれ、徐々に生活は安定し、家も購入しました。10年後、物質的に豊かになり、幸せに見えた夫婦の関係は悪化し、離婚について話し合うほどになっていました。離婚が話題にのぼる時点で、結婚生活が危機(キキ)的状況にあると分かるでしょう。私は彼らに、これまでの10年間を振り返り、何が原因でこうなったのか、また自分たちの最大の変化は何だったのかを考えてもらいました。1週間のカウンセリングの結果、彼らは結婚生活をもう一度やり直す決心をしました。そして数年後、夫の男性から再び連絡があり、二人は今とても幸せで、さらにもう一人、子供が生まれたと聞きました。この話を聞いて、私も心が温かくなりました。 

このエピソードは、物質的な豊かさが幸せをもたらす一方で、金銭への欲望をうまくコントロールしなければ、その欲望が破壊的な影響を与える可能性があると教えてくれます。貧しい時、夫婦は互いに愛し合い、文句を言うこともありませんでしたが、物に不自由しなくなると、結婚生活に障害が生じてしまいました。物質的な快楽に溺れることで、人間の価値観や認識が変わり、真の幸せが見失われてしまったのです。

今日の第一朗読(知恵の書7:7-11)には「わたしは祈った。すると悟りが与えられ、願うと、知恵の霊が訪れた。」と書かれています。知恵がなければ、生きる目的を見失い、真の幸福を感じることはできません。この知恵は天からの賜物(たまもの)であり、人間界から得られるものではありません。知恵を持つ者は、創造主が定めた価値を正しく理解し、神の導きに従うことで、何も失わず(うしなわず)、真の喜びを得ることができるのです。

今日の福音書(マルコ10:17-30)には、ある正直で誠実な金持ちの若者が内なる不安と虚しさに苦しんでいる姿が描か(えがかれています)れています。イエスは彼を見つめ、愛情を込めて言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」富を持つこと自体は罪ではありません。しかし、それに執着し、独り占めすることが問題なのです。この若者はイエスの招きに応じる勇気がなく、富に固執して、悲しみながら去っていきました。彼は富を手放すことができなかったのです。彼は、人間の心が無限の愛のために創られていることに気づけず、物質的な奴隷状態に留まる限り失望と不満が続くことを理解していませんでした。イエスの教えは、富裕層だけに向けられたものではありません。貧しい人々も同様にすべてを捨て神に従う必要があります。重要なのは、どれだけ与えるかではなく、「すべてを神に捧げる覚悟を持てるか」なのです。

この若者はイエスの招きに応じる勇気がなく、富に固執して、悲しみながら去っていきました。彼は富を手放すことができなかったのです。彼は、人間の心が無限の愛のために創られていることに気づけず、物質的な奴隷状態に留まる限り失望と不満が続くことを理解していませんでした。イエスの教えは、富裕層だけに向けられたものではありません。貧しい人々も同様にすべてを捨て神に従う必要があります。重要なのは、どれだけ与えるかではなく、「すべてを神に捧げる覚悟を持てるか」なのです。

年間第27主日 「切り離せない愛」 (10月6日2024年) ジョン神父

現代社会には多くの課題がありますが、特に考慮すべき問題が2つあります。まず1つ目の問題は、多くの若者が結婚を考えず、独身生活を選ぶことです。 最近、私の友人たちの中で5人に尋ねたところ、5人のうち4人は未婚で、今も独身生活を希望しており、独身でいることで、働いて稼いだお金の多くを自分の好きなことに使うことが出来るからです。 あと1人の友人は、離婚経験があり、現在独身です。2つ目の問題は、今日どの国や社会においても、離婚率が上昇していることです。 

 同様に、結婚している夫婦にとっても多くの挑戦があります。結婚生活は「戦場」と例えられることもあり、「愛と憎しみ」が交錯する関係を維持することは簡単なことではありません。夫婦の間にはさまざまな心配事があります。問題が発生するたびに、「このまま続けるべきか、それとも逃げるべきか」「相手はまだ自分を愛しているのか」「家庭の経済状況はどうか」「相手が外で浮気をしているのではないか」などと考えてしまいます。性格の不一致、生活習慣の違い、子どもとの時間の取り方、自分自身の空間など、問題が解決されないままでいると、夫婦関係は悪化し、最終的には離婚を考えることになるかもしれません。それで私たちの周りには独身者が多く、離婚を選択する人も少なくないのです。この問題にどう対処すればよいのでしょうか。また、どのようにすれば結婚生活の新鮮さを保っていくことができるのでしょうか。今日の第一朗読では(創世記2:18-24)、神様が最初に男を創造した後、「人が独りでいるのは良くない。」と彼の肋骨の一つから女を創造され、「彼に合う助ける者を造ろう」としました。 実際、男は肋骨が一本少ないので完全な状態ではありませんでした。女は男にとって男を完全にする存在なのです。女は男の心臓に近い肋骨であり、最も大切な存在です。女がいなければ、男は孤独な一生を送ることになるでしょう。命の意味は共有することにあります。男と女が共にいることで、初めて完全な世界が生まれます。命を分かち合うことこそ、創造主の望みなのです。今日の福音書にも「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」とあります。

今日の福音書(マルコ10:2-16)では、ファリサイ派の人々がイエスに、離婚に関する質問を投げかけています。旧約時代における離縁の制度は、女性の権利を保護するためのものでした。古今東西を問わず、女性は社会的に差別されやすい存在であったことは否めません。結婚の持続性は常に夫婦間の課題です。社会の発展と経済の進歩に伴い、結婚は多くの新たな課題に直面しています。

私たちは生活の中で、結婚を通して愛の力を見つける必要があります。愛の力は、夫婦が互いに困難に打ち勝ち、和解し続けることで育まれます。結婚は二人で努力するものであり、一方だけの努力では成り立ちません。子供が生まれると、たとえ大変であっても、その幸福感は独身者には想像できないほど大きなものです。これが「家庭」の重要性でもあります。家庭とは、どんなに欠点があっても受け入れてくれる場所であり、語り合える場所であり、愛のある場所です。だからこそ、私たちは特にすべての家庭のために祈りを捧げます。神様がすべての夫婦を祝福し、夫婦が互いに愛し合い、受け入れ合い、夫婦関係の中で成長することを学べますように。結婚における愛は、人を自己から解き放ち、互いに相手に向かわせるものです。私たちの祈りが、すべての家庭に平和と喜びをもたらすものとなりますように。

私たちは生活の中で、結婚を通して愛の力を見つける必要があります。愛の力は、夫婦が互いに困難に打ち勝ち、和解し続けることで育まれます。結婚は二人で努力するものであり、一方だけの努力では成り立ちません。子供が生まれると、たとえ大変であっても、その幸福感は独身者には想像できないほど大きなものです。これが「家庭」の重要性でもあります。家庭とは、どんなに欠点があっても受け入れてくれる場所であり、語り合える場所であり、愛のある場所です。だからこそ、私たちは特にすべての家庭のために祈りを捧げます。神様がすべての夫婦を祝福し、夫婦が互いに愛し合い、受け入れ合い、夫婦関係の中で成長することを学べますように。結婚における愛は、人を自己から解き放ち、互いに相手に向かわせるものです。私たちの祈りが、すべての家庭に平和と喜びをもたらすものとなりますように。

年間第26主日 「神の愛と恵みは独占物ではない 」 (9月29日2024年) ジョン神父

今日の第一朗読(民数記11:25−29)では、主の霊が70人の長老たちに降り注がれるだけでなく、選ばれなかったエルダドとメダドにも与えられました。彼らもまた預言を語ることができました。ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてください」と言った。モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こしているのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。」私たちはここから、キリスト教の共同体が互いを受け入れるオープンな場になる必要があると理解できます。共同体では、権力を集中させるよりも協力し合うべきです。神は自由であり、あらゆる障害を超えて、どこにおいても善を生み出すことができます。聖霊は閉ざされたり、いかなる機構や制度にも限定されることはありません。

共同体、家庭、会社において権力への執着は試練です。この問題を克服しなければ、団結を維持できず、最終的には崩壊してしまうでしょう。今日の福音書にも同じようなことが起こっています。ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスの答えは、「やめさせてはならない。私たちに逆らわない者は、私たちの味方である」というものでした。イエスは決して過激な宗教指導者ではありませんでした。イエスは、特に弱者や社会の周縁にいる人々の異なる声を尊重していました。今日では多くの様々な宗教が存在しています。人々のためになる限り、神はそれらの存在を許し、それ故に、人は自由に宗教を選べるのです。

 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に掛けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」(マルコ9:42)多くの場合、言葉、噂、誤解が多くの問題を引き起こし、教会の中でも信徒の間に隔たり、分断を生じさせます。家庭や共同体の中で、大多数の人は寛大で熱心に兄弟姉妹に奉仕していますが、それでも嫉妬や固執、競争の発生を避けられません。なぜなら、地位や仕事がもはや奉仕ではなく、名誉と権利を追求する手段となり、自分の権利を守ることに執着し、他者の参加を侵入者と見なして、強く排除してしまうからです。こうなってしまうと、いかに実りある提案や変化をもたらす協力者も厳しく警戒されてしまいます。私たちの家庭、教会の共同体、さらには社会においても、私たちは互いに奉仕し合い、正しい方法でコミュニケーションをし、良い環境を築かねばなりません。それが私たちとこの世界との関係を築くことにもなるのです。善と愛、平和と喜びがあるところに、神の霊、聖霊の働きがあるのです。聖霊は自由であり、信仰を生ける水として、周囲の人々に生命をもたらします。

私たちの家庭、教会の共同体、さらには社会においても、私たちは互いに奉仕し合い、正しい方法でコミュニケーションをし、良い環境を築かねばなりません。それが私たちとこの世界との関係を築くことにもなるのです。善と愛、平和と喜びがあるところに、神の霊、聖霊の働きがあるのです。聖霊は自由であり、信仰を生ける水として、周囲の人々に生命をもたらします。

年間第25主日 「謙虚になることを学ぶ」 (9月22日2024年) ジョン神父

人間関係において、私たちはしばしば挫折を経験します。その人の性格や家庭環境などの理由から、人と関係を築くのに難しさを感じ、逃げたり、自分を閉ざしてしまったりします。しかし、他者と交流する上で最も注意すべきことは、自分が相手を傷つける行動をしていないか、ということです。

年間第23主日の福音書のテーマは、人と人との最善の関わり方は「聴くこと」を学ぶことでした。これは、自分と他者を理解する助けになるだけでなく、神の声をよりよく聞くことにもつながります。しかし、今日のヤコブの手紙にある罪悪、嫉妬と争いの感情も無視してはなりません。この二つの本能—嫉妬と争い—はしばしば人を支配し、多くの悪事の根源となります。福音書には、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。(マルコ9:33)と記されています。この時、弟子たちは自分たちの虚栄心が暴かれたために沈黙しました。彼らはイエスが常日頃から彼らの首位をめぐる争いに気づいておられ、注意されたことを知って、自分たちの誤りに気づきました。イエスの教えにおいて、内面的な成長は非常に重要です。誰が自分たちの中でリーダーであるかという理由で争う弟子たちに対して、イエスはもう一度子供のような姿勢で学ぶよう教えました。心が子供の状態に戻ることで、初めてイエスの弟子として、本当の意味でイエスの教えを悟ることができるのです。

私たち一人ひとりが教会で学び、洗礼を受け、成長していく過程で、自分が洗礼を受けてから今までにどれだけ進歩したか、反省する必要があります。残念ながら、私は教会で多くの信徒が個人的な利益のために競い合っているのをよく目にします。教会の中で私たちは、権力を争うのではなく、お互いに仕え合う謙虚な心を思い出さなければなりません。謙虚さは最も素晴らしい内面の印です。子供が持つ純粋な心、天国はそのような者たちのためのものです。

今日の福音書の中で、子供は弱さと無力の象徴であり、配慮と愛が必要です。私たち神の民の共同体において、兄弟姉妹の間では互いに仕え合い、受け入れることが必要であり、互いを排斥したり、嫉妬したり、争ったりすることではありません。特に弱い立場にある人々に対して、私たちは受け入れることを学ぶべきです。弟子たちを諌めたイエスの意図とは、最も貧しい人々、無力な人々、あまり清潔と見えない人々、そして社会の底辺にいる人々に、弟子たち全員がもっと注意と行動を向けるよう望んだことです。弱者や間違いを犯しやすい人々を受け入れることこそイエスの教えを実践する真の方法なのです。
今日の福音書の中で、子供は弱さと無力の象徴であり、配慮と愛が必要です。私たち神の民の共同体において、兄弟姉妹の間では互いに仕え合い、受け入れることが必要であり、互いを排斥したり、嫉妬したり、争ったりすることではありません。特に弱い立場にある人々に対して、私たちは受け入れることを学ぶべきです。弟子たちを諌めたイエスの意図とは、最も貧しい人々、無力な人々、あまり清潔と見えない人々、そして社会の底辺にいる人々に、弟子たち全員がもっと注意と行動を向けるよう望んだことです。弱者や間違いを犯しやすい人々を受け入れることこそイエスの教えを実践する真の方法なのです。

年間第24主日 「どこに行けばいいですか」 (9月15日2024年) ジョン神父

ある若いカップルの結婚を思い出します。彼らは幸せへの期待に満ちていましたが、同時に将来への不安も感じていました。結婚生活は2人にとって大きな挑戦チャレンジでした。お互いの愛が未来永劫変わらないと保証できる人はいません。生活の中でさまざまな問題が生じるでしょう。お互いへの理解とコミュニケーションがなければ、結婚生活は険しく困難なものになるかもしれません。

弟子たちがイエスに従うように招かれたとき、彼らもまた大きな挑戦に直面しました。イエスとは誰なのか?なぜ私たちは彼に従うべきなのか?彼の教えは信頼できるのか?彼は私たちの生活の安全を保証してくれるのか?彼に従えば、私たちの努力は報われるのか?

 今日の福音書の中で、これら多くの疑問が弟子たちの心に浮かんでいたことでしょう。ガリラヤ湖のほとりで、イエスが彼らに「わたしについて来なさい」(マルコ1:17)と言ったとき、弟子たちはこれらの質問をする機会がありませんでした。彼らはイエスの言葉とまなざしに深く引き込まれ、すぐにすべてを置いて明確な目標もないままイエスに従いました。その結果、後に誤解が生じました。彼らは教師の選択に成功したと思っていましたが、実際には、十字架から降りることのできない、罪に定められた人を追いかけていることに後々気づきました。

イエスの最初の質問は「人々は、わたしのことを何者だと言っているか?」そして、さらに挑戦的な二つ目の質問は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」でした。これらの質問は他人がイエスをどう見ているかに加え、弟子たち自身がイエスをどう見ているかを問うています。ペトロはイエスに待ち受ける運命を正しく理解しておらず、状況を誤解し、誤った判断を下してしまいました。そのため、イエスはペトロを叱り、「サタン、引き下がれ!」(マルコ8:33)と言いました。イエスがペトロを「サタン」と呼んだのは、ペトロの人間的な思考が彼の視野を狭め、神の計画を理解できなくさせたからです。人間は本性として「自己中心的な考え方」の傾向が深く根付いており、個人的な利益を中心に置き、他人の利益をないがしろにする場合があります。今日のクリスチャンとして、私たちは信仰とイエスについてはっきりと理解しなければなりません。心に様々な神々を抱えたまま、イエスに仕えることはできません。ペトロの誤解の話は、神の前に先走るのではなく、まず自分の信仰の基礎を理解する必要があることを、私たちに思い出させてくれます。  

イエスに従うことを選んだ人々にとって、最初の任務は、自己中心的な考えと利己主義を捨てることです。もし今日の福音の中で、クリスチャンであることの真の意味を理解できなければ、イエスはペトロに求めたように、私たちにも神のみ旨神の意志の前に沈黙を保つよう厳しく求めるでしょう。イエスに従うことの真の意味は、ただイエスを真似るのではなく、イエスの選択を共有し、シェアして、イエスの救いの計画を引き受け、イエスのように他人幸福のために自分の命を捧げる人を目指すことなのです。

イエスの最初の質問は「人々は、わたしのことを何者だと言っているか?」そして、さらに挑戦的な二つ目の質問は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」でした。これらの質問は他人がイエスをどう見ているかに加え、弟子たち自身がイエスをどう見ているかを問うています。ペトロはイエスに待ち受ける運命を正しく理解しておらず、状況を誤解し、誤った判断を下してしまいました。そのため、イエスはペトロを叱り、「サタン、引き下がれ!」(マルコ8:33)と言いました。イエスがペトロを「サタン」と呼んだのは、ペトロの人間的な思考が彼の視野を狭め、神の計画を理解できなくさせたからです。人間は本性として「自己中心的な考え方」の傾向が深く根付いており、個人的な利益を中心に置き、他人の利益をないがしろにする場合があります。今日のクリスチャンとして、私たちは信仰とイエスについてはっきりと理解しなければなりません。心に様々な神々を抱えたまま、イエスに仕えることはできません。ペトロの誤解の話は、神の前に先走るのではなく、まず自分の信仰の基礎を理解する必要があることを、私たちに思い出させてくれます。  イエスに従うことを選んだ人々にとって、最初の任務は、自己中心的な考えと利己主義を捨てることです。もし今日の福音の中で、クリスチャンであることの真の意味を理解できなければ、イエスはペトロに求めたように、私たちにも神のみ旨神の意志の前に沈黙を保つよう厳しく求めるでしょう。イエスに従うことの真の意味は、ただイエスを真似るのではなく、イエスの選択を共有し、シェアして、イエスの救いの計画を引き受け、イエスのように他人幸福のために自分の命を捧げる人を目指すことなのです。

年間第23主日 「最適なコミュニケーション」 (9月8日2024年) ジョン神父

私たちの日常生活において、最適なコミュニケーションの方法とは何でしょうか?多くの人が自分の考えを相手に必死に伝えようとし、時には誰かを説得しようと試みるでしょう。しかし、試みも虚しく期待通りの結果にならない場合も少なくありません。では、最適なコミュニケーションの方法とは何でしょうか?その答えとは「聴くこと」です。実のところ、一部の人はこの「聴く力」を欠いています。聞き手が真剣に耳を傾けなければ、話の内容が無意味になってしまいます。話を聞かないことは、話し手に対し無礼でもあります。また、懸命に自分の考えを表現していても、相手の心の中には既に答えがあり、聞いてはいるが聴いていないかもしれません。人間関係においてコミュニケーションが難しくなる理由の一つは、「聞く耳を持たない」からです。        

注目すべきは、「聞く」という言葉が旧約聖書に1159回も登場するということです。これは、イスラエルの民が神の言葉を心から聴くことがいかに困難であったかを示しています。この「聞く耳を持たない」という状態は、人の命が閉ざされていること、または神を知らない状態を象徴しています。もし誰かが聞く耳を持たなければ、その人は他者と効果的なコミュニケーションを取ることができず、自分自身の世界の中で生きることになります。常に自分が正しいと思い込んでしまうのです。「聴く」ことができなけば、私たちは自分を正しく表現することもできないのです。マルコによる福音書の中では、「聴覚障害者」は、キリストに出会ったことがなく、福音を聴く機会を持たなかった人々を指しています。また、自ら耳を閉ざし、救いの言葉が心に入るのを拒否した人々でもありました。イエスが「聴覚障害者」を癒したとき、それは新しい対話の始まりを告げるものでした。ユダヤ人も異邦人も、すべての人が耳と心を開かれ、福音を聴き、信仰を受け入れ、兄弟姉妹に福音を宣べ伝えることができるようになったのです。        

私たちの家庭、共同体、社会の中でしばしば欠けてしまうのが「コミュニケーション」です。その代わりとばかりに「攻撃」が行われています。その原因もまた、聴く能力が欠けているからです。キリストの言葉は私たちの耳を開き、心の中の壁を溶かす力を持っています。イエスが「聴覚障害者」を群衆から遠ざけたという描写には、さらに意味があるのかもしれません。洗礼の中で、聴覚障害が癒され、神の言葉を聴く能力が与えられた時、その人はもはや異邦人の群れに属さず、選ばれた者、他とは異なる者となるのです。         聴くことがいかに重要なコミュニケーションの方法であるかを考えてみましょう。生活と祈りの中で私たちが神の意図を理解できないのは、自分の不満を一方的に神に話して、神が私たちに語りかけようとすることを聴こうとしないからかもしれません。「エファタ」はアラム語で「開け!」という意味です。イエスもこの言語を用いました(マルコ7:34)。これは耳を開けという意味ですが、この言葉は人の心に対しても向けられています。かつて聴くことができなかった人々に対し、心を開いてイエス・キリストと福音を自分の生活に迎え入れるよう招いているのです。

聴くことがいかに重要なコミュニケーションの方法であるかを考えてみましょう。生活と祈りの中で私たちが神の意図を理解できないのは、自分の不満を一方的に神に話して、神が私たちに語りかけようとすることを聴こうとしないからかもしれません。「エファタ」はアラム語で「開け!」という意味です。イエスもこの言語を用いました(マルコ7:34)。これは耳を開けという意味ですが、この言葉は人の心に対しても向けられています。かつて聴くことができなかった人々に対し、心を開いてイエス・キリストと福音を自分の生活に迎え入れるよう招いているのです。

年間第22主日 「あなたはどのような人になりたいですか?」 (9月1日2024年) ジョン神父

日常生活において、多くの人は細かいところに大変気を配っています。たとえば、仕事に行く前や友達に会うとき、パーティーに出席する際には、服装に細心の注意を払い、適切な服を選び、香水をつけ、服に合うネクタイや靴を選びます。特に女性はメイクやヘアスタイルに力を入れます。こうした外見への配慮は、社会的な場で自分を良く見せ、他者との交流に効果的に役立ちます。しかし、外見を過度にこだわりすぎると、本当に大切なものを見失ってしまうかもしれません。過剰な装飾や贅沢への執着は、時に大げさに捉えられることがあります。ここで強調したいのは、もし外見をよく見せたいがためにあまりにも多くの時間とエネルギーを費やしていると、内面の自己がおろそかになってしまうかもしれないということです。

        ユダヤ教のラビ(先生)たちは、外見や儀式に非常にこだわりました。たとえば、神殿に入る前には、手と足を洗う儀式を厳格に守りました。また、彼らの教えはしばしば、人々を清潔か不潔か、正しい人か罪人か、明確に区別しました。しかし、こうした規則は人々の間に不平等を生む可能性があります。神の目には、これらの区別は存在せず、すべての人は神の子です。外見的な儀式を守ることは重要ですが、それらの過度な主張は人々の間に分裂を生む可能性があります。神は、人の内面と行動との一貫性を重んじます。しかし、私たちはしばしば内面の重要性を見落としがちです。信頼、信仰、思いやり、愛、共感、優しさ、寛大さ、理解といった特質こそが大切で、友人を選ぶ際に、お金をどれだけ持っているか、だとか、生活が豪華だから、などといったことは重要ではないはずです。高価なハンドバッグがその人の人格を反映しているわけではありません。ただ、金持ちであることを示しているに過ぎないのです。

        今日の福音書で、イエスは預言者イザヤの言葉を引用されています。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」(イザヤ29:13)私たち人間は初めから外見で他人を判断しますが、神は心の改心を重んじます。神は、外見の清潔さや形式主義、神殿の儀式の壮麗さには興味がないと宣言しています。たとえ信心深く見え、定期的に教会の儀式に参加していたとしても、教会の外での行動が異なっていれば、これらの宗教的活動はその人にとって本当の意味での利益にはなりません。私たちクリスチャンは、聖書を学び、教会活動に参加することで、信仰を成長させることができます。教会そのものが、私たちの心が成長できる場所です。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と言われました。クリスチャンは常に内面を育て、信心深く、責任感があり、思いやりのある人間になるよう努めてください。神が私たちに与えてくださる愛は、法律や規律などではなく、神の言葉を絶えず聞き続けることで、私たちの心に愛の種が植えられ芽生えたものです。だからこそ私たちは困難に立ち向かい、真実を語り、誠実な人間になることができます。最後に、私たちが言葉と行動の両方に忠実なクリスチャンとなれるように神が私たちに力と知恵を与えてくださるよう祈りましょう。

私たちクリスチャンは、聖書を学び、教会活動に参加することで、信仰を成長させることができます。教会そのものが、私たちの心が成長できる場所です。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」と言われました。クリスチャンは常に内面を育て、信心深く、責任感があり、思いやりのある人間になるよう努めてください。神が私たちに与えてくださる愛は、法律や規律などではなく、神の言葉を絶えず聞き続けることで、私たちの心に愛の種が植えられ芽生えたものです。だからこそ私たちは困難に立ち向かい、真実を語り、誠実な人間になることができます。最後に、私たちが言葉と行動の両方に忠実なクリスチャンとなれるように神が私たちに力と知恵を与えてくださるよう祈りましょう。

年間第21主日 人生の選択が求められる時 (8月25日2024年) ジョン神父

人生の旅路において、私たちは毎日選択に直面しています。多くの人々は上手く行かないと、自分は失敗したと嘆きますが、生きている限り、私たちは様々な岐路で、絶えず自分の進むべき道を選択して今があります。人間関係でも同じです。時には意見の違いから、長年の友人と最終的に仲たがいしてしまうこともあるかもしれません。誤った選択をしても再びやり直せることもありますが、二度と選択する機会に恵まれない場合もあります。なぜなら、人生には「一度しかチャンスがない」試練もあるからです。しかし、神様にとっては状況が異なるのかもしれません。

今日の第一朗読では、ヨシュアは亡くなる前にイスラエルの民に対して、主なる神に仕え、エジプトや荒れ野で先祖が崇拝していた異邦の神々を捨てるようにと訓示しています。ヨシュアは民に対して決定的な選択を求め、彼らがどの神々に仕えるかを公然と宣言するように求めました。ヨシュアはすべての使命を終えた後、110歳で安らかに世を去り、エフライムの山地に葬られました(ヨシュア記24:29-30)。この歴史は、人類が選択においてつまずいた時、神が私たちに愛を示しているのだと教えてくれています。

 福音書の中で、しばらくの間イエスの教えに従った弟子たちの一部が、イエスの言葉を受け入れられなくなり、続けて従うかどうかの選択に直面しました。彼らはイエスの言葉を「ひどい話だ」と感じ、弟子たちの多くが、イエスのもとを離れることを選びました。この「ひどい」という言葉は、違和感や不適応、さらには反発を意味し、そのため師弟関係に亀裂が生じ、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネ6:66)のです。真理を受け入れることは確かに難しいことです。なぜなら、それは自己を捨てて、新しい生活や、生き方に従うことを意味するからです。受け入れられない者は放棄せざるを得ませんが、イエスの福音を受け入れるには、神の恵みと信仰に委ねることがが必要です。ヨシュアがそうであったように、また、ヨシュアの訓示を聞いたイスラエルの民やイエスの福音を聞いた弟子たちがそうであったように、私たち一人ひとりが巡礼の道を歩んでいます。この道には、お金、権力、欲望、名誉など、さまざまな誘惑が満ちていますが、神は私たちに何度も選択の機会を与えてくださっているのです。

    私たちの共同体や教会の中にも、今日の福音にあるような弟子や友人が少なくありません。彼らは決して悪い人ではなく、裏切り者でもありませんが、人に流されやすく、自分で考えることを放棄してしまいがちです。特に、慣れ親しんだ環境で生活している時に、突然新しい生活や生き方に直面すると、それを受け入れることの難しさにぶつかり、時には拒絶してしまいます。イエスがもたらしたのは、新しい命、新しい生き方です。本当に福音を受け入れたいと願う者は、イエスを信じ、従う勇気を持つ必要があります。感謝の祭儀に参加するように、イエスの招きを受け入れる決断は、光に「ハイ」と言い、同時に闇を捨てることを意味します。選択は確かに難しいものですが、大切なのは、私たちが自分の欠点や弱さを受け入れる勇気を持つことです。感謝の祭儀は罪人の癒しのためのものであり、私たちがつまずいた時には、勇気を持って神のもとに戻る選択をするのです。大きな選択の前には、常に神に祈り、正しい決断を下すことを学びましょう。
人生の旅路において、私たちは毎日選択に直面しています。多くの人々は上手く行かないと、自分は失敗したと嘆きますが、生きている限り、私たちは様々な岐路で、絶えず自分の進むべき道を選択して今があります。人間関係でも同じです。時には意見の違いから、長年の友人と最終的に仲たがいしてしまうこともあるかもしれません。誤った選択をしても再びやり直せることもありますが、二度と選択する機会に恵まれない場合もあります。なぜなら、人生には「一度しかチャンスがない」試練もあるからです。しかし、神様にとっては状況が異なるのかもしれません。

年間第20主日 キリストへの飢え渇きを保つ (8月18日2024年) ジョン神父

命は神からの貴重な贈り物であり、神と人の間に深い繋がりをもたらします。この素晴らしい贈り物は大切に育てる必要があります。人生の多くの課題の中で、「飢え渇き」は最も持続的で普遍的なものの一つです。人類の始まりから、食べるという概念は人間の生活の中心的なものでした。創世記2:16−17で、神は人に命じて言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪を知る木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」ここで神は、私たちが物理的に、また霊的に摂取する「物」の重要性を示しています。私たちの日常生活は、飢えと食べることを中心に展開されます。栄養の摂取は生きる上で重要であり、不健康な食事は病気を引き起こし、バランスの取れた食事は健康を促します。しかし、私たちはしばしば、体が満たされたとしても、もっと多くの「物」を求めて飢えることがあります。

人類は食物から得る栄養以上のものを求めて飢えています。私たちは愛、友情、成功、気持ちの支え、そして知恵を渇望します。しかし、神からもたらされた命は、天からの栄養でしか、真に私たちを支えることはできません。イエスはこの霊的な飢え渇きに対して、言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(ヨハネ6:53)。ヘブライの人々にとって、動物の血を飲むことは禁止されており、血は命そのものを象徴していました。モーセの時代には、雄牛の血によって契約が神と結ばれました(出エジプト24:8)。ですから、イエスが自身の血を飲むように言われるのは奇妙に感じられるかもしれません。しかし、そこには重要な真実が記されています。「命の主は人間自身ではなく、神です。」この新しい契約はキリストの血によって神と結ばれました。最後の晩餐の際、イエスは自身の肉と血の代わりにパンと葡萄酒を用いてこの約束を果たされ、神と人類の間に新しい契約を確立されました。イエスは私たちに天からの霊的な食べ物を提供し、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6:54)と宣言されました。

今日、多くのクリスチャンは霊的な栄養を欠いています。この神への飢え渇きは世間にあふれる代用品では満たされず、聖体拝領を通して初めて見つけることができます。大切なのは、キリストの体が私たちの生活に根付き、周りの人々も、私たちを通して、キリストを見ることができるようにすることです。聖体を拝領することは、単なる形式的な行為ではなく、神に献身を誓い、キリストの内に招かれて、キリストから命を得ることです。聖体拝領の前に、神の聖なる言葉を聞き、心を整えましょう。霊的な旅を進める上で、私たちの心、気持、精神においてキリストへの飢え渇きを持ち続けましょう。神の言葉と感謝の祭儀の中で、命のパンを拝領して、霊的な栄養を見つけることで、信仰において成長し、キリストの愛を周囲の人々に反映させることができます。私たちの霊的な飢え渇きこそが神の祝福であり、すべての命の源である神と、私たちは繋がっていることを覚えていてください。キリストへの飢え渇きを常に保ち、この聖なる食欲を満たすことで、日々の生活の真の充実と永遠の命を見つけることができますように。

人類は食物から得る栄養以上のものを求めて飢えています。私たちは愛、友情、成功、気持ちの支え、そして知恵を渇望します。しかし、神からもたらされた命は、天からの栄養でしか、真に私たちを支えることはできません。イエスはこの霊的な飢え渇きに対して、言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(ヨハネ6:53)。

聖母の被昇天 (8月15日2024年)

マリアの偉大さは、イエスの母に選ばれたことだけでなく、その役割を神様への信仰と信頼をもって完全に受け入れたことにあります。彼女は、その代償が何であるかを知らなくても、神に自らを完全に捧げました。今日、私たちは彼女が人類の中で最も高い地位に引き上げられたことを称えます。それて今日の感謝の祭儀で私たちもマリア様にならって日々の生活の中で信仰を深めていくように祈りましょう。

年間第19主日 疲労を和らげる (8月11日2024年) ジョン神父 

今日の一つ目の質問です。あなたは痛みを伴う程の辛い体験をしたとき、どうしますか。精神的にも肉体的にも疲れ果てて、どう世間と向き合えばいいのでしょうか。人生の困難に直面したとき、どう対処すればいいのでしょうか。誰もが何らかの悩みを抱えており、辛い事柄から逃げる選択をする人もいるかもしれません。

今日の聖書の第一朗読に、預言者エリヤが自分を殺そうとしている王妃イゼベルを恐れて逃げて、ホレブ山に向かう様子が描かれています。(列王記上19:4−8)エリヤは四十日四十夜歩き続け、長い旅の末に洞窟で神と対話します。(列王記上19:8−18)これまでのエリヤは孤独でしたが、後にダマスコに派遣され神の使命を果たします。旅の途中で、エリヤは自分の恐れと弱さに気づき、逃げることを選択しました。疲れて精魂尽き果てたエリヤに、天使はパンと水を与え、前に進むように励ましました。ホレブ山で神はモーセの前に現れ、エジプトからイスラエルの人々を導き出す使命をモーセに与えました。(出エジプト記6:2−13)預言者エリヤの場合も同じです。天使はエリヤに食べ物を与えました。この食べ物は命の力を象徴しています。人は誰もが使命を持っており、前進するための力を必要としているのです。主にある友よ、あなたの人生の原動力は何ですか。

今日の福音書では、ユダヤ人たちは最初からイエスの言うことを受け入れず、イエスの出身に偏見を持っていました。ユダヤ人たちは言いました。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」(ヨハネ6:42)イエスは同郷の者なのに、どうして命のパンだと主張するのか。イエスは狂っているのか。それとも特別な権利があるのか。偏見は古くからある人間の欠点です。いったん誰かがその人に偏見を抱くと、たとえその人が千の良い行いをしたとしても決して認めないでしょう。イエスが無数の奇跡を行ってもユダヤ人たちに拒絶されたことと同じです。

これが今日の二つ目の質問です。「誰か」あるいは「何か」に対して偏見を抱いていませんか。偏見はユダヤ人たちの目を曇らせ、彼らは救いを見ることも信じることもできなくなりました。私たちは直接神を見たり理解することはできませんが、イエスを通してなら神を見ることができます。イエスが行ったこと、言ったこと、教えたことを観察することで、神の存在を見ることができます。旧約聖書では、神はしばしば預言者を通して姿を現しました。今日、神は私たちの中で人間の形をして私たちと一緒に生活し歩んでいるのです。私たちはイエスの話を聞いて、イエスを通して神に触れることができます。この方こそがナザレのイエスです。

 主にある兄弟姉妹よ、まず全ての偏見を取り除き、イエスを救い主として受け入れてください。イエスを命のパンとして受け入れると、イエスは私たちの命を支えるのです。痛みや疲れ、困難の中でも、イエスの教えを信じることであらゆる困難を乗り越えることができます。イエスは全ての問題を解決することを約束してはいません。それでもこのパンを食べる者には永遠の命があることを保証しています。イエスのパンとその言葉を、私たちの命の「生ける水」「いける泉」としましょう。

今日の一つ目の質問です。あなたは痛みを伴う程の辛い体験をしたとき、どうしますか。精神的にも肉体的にも疲れ果てて、どう世間と向き合えばいいのでしょうか。人生の困難に直面したとき、どう対処すればいいのでしょうか。誰もが何らかの悩みを抱えており、辛い事柄から逃げる選択をする人もいるかもしれません。

年間第18主日 命の糧 (8月4日2024年) ジョン神父 

そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。 「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(ヨハネ6:29)

イエスは、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」と語りました (マタイ6:26)しかし、今日多くの人が自分が鳥よりも価値がないと感じています。家庭や社会のプレッシャーで、自分の価値を忘れてしまうのです。物質的な追求は私たちを満たすことができず、人は常にもっと多くを求め、競争と不安の中で生きています。今日の福音書の中で、群衆がイエスを捜し求めて来たのは、パンを得るためでした。イエスは、「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」と言いました。モーセが多くの奇跡を行ったにもかかわらず、イスラエルの人々はそれを忘れました(民数記11)多くの人は、朽ちる食べ物のために力を注いでいますが、自分が守ろうとしている命が最終的に死を迎えることを忘れています。イエスは私たちに永遠の命の糧を求めるよう教えました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27)それは人が死んでもこの命は永遠に続くと言うことです。

「わたしが命のパンである。」とイエスは言いました。 (ヨハネ6:35)今日多くの人は精神的に困難を感じ、イエスの命の糧を必要としています。生きているからといって必ずしも本当に生きているわけではありません。本当に生きるためには、命の力と光が必要です。物質的な欲望は私たちを疲れ果てさせますが、イエスの命の糧は自由と喜びをもたらします。イエスは、「神が遣わされた者を信じること、それが神の業である」と言っています。今の時代には、イエス・キリストを信じる深い信仰が必要です。イエスの言葉とイエスの体である聖体が私たちに永遠の命をもたらします。

イエスの招きは私たちへの愛と配慮に満ちています。イエスは言った。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」忙しい生活の中で一息つき、イエスと共に歩み、イエスとの交わりの中で内なる平和と力、内なる静けさと満足を見つけることを学びましょう。イエスの教えを通して、私たちは忙しい世界の中で真の魂の休息とバランスを見つけ、生きる意味と充実した生活を送ることができます。

イエスの招きは私たちへの愛と配慮に満ちています。イエスは言った。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」忙しい生活の中で一息つき、イエスと共に歩み、イエスとの交わりの中で内なる平和と力、内なる静けさと満足を見つけることを学びましょう。イエスの教えを通して、私たちは忙しい世界の中で真の魂の休息とバランスを見つけ、生きる意味と充実した生活を送ることができます。

年間第17主日 食卓 (7月28日2024年) ジョン神父 

パンが増えることと分かち合うこと

『集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。』ヨハネ6:13

皆さん、今日は一つ質問したいんです。皆さんの家庭では、家族一緒に夕食を食べますか?夕食の時、家族と話したり、一日の出来事を話したりしますか?忙しい生活の中で、家族や友人と食事を共にすることは、心を休める最も効果的な方法の一つです。一緒に食事をし、楽しいことや辛いことを分かち合います。共に食事をすることは、家族愛、友情、信頼、相手を受け入れることの象徴です。多くの場合、いくつかの気まずい衝突も、食事を共にすることで解消し、和解が成立します。しかし、最も心配なのは、食卓で誰もが黙ったまま。今日、多くの家庭では、一緒に食事をする時間を持たなかったり、家族の中に同じテーブルで食事をするのを避ける者さえいます。これは今日、多くの家庭が直面している問題です。もし私たちが共に食事をすることの重要性を理解すれば、生活にもっと気を配り、家族や友人と一緒に過ごす時間を大切にするようになるでしょう。

今日の第一朗読の背景は、ひどい干ばつの時期です。(列王記下4:42−44)状況は絶望的で、人々は空腹を満たすために、見つけられるものは何でも草の根、木の葉、野草、さらには毒のあるものさえも食べました。旧約聖書には、「飢餓」という言葉が134回登場します。古代中東地域では降水量が少なく、飢饉が頻繁に発生し、人々は食料を求めて奔走しました。実際、イエスに従った人々を見ると、その一部の人たちは空腹を満たすために群衆に従っていたことがわかります。イエスがパンと魚を祝福すると、すべてのパンと魚が増えました。残ったパン屑を十二の籠に集めましたが、これは人々が分かち合った食物が決して尽きることがないことを象徴しています。ですから、今日の福音のテーマは「食べ物が増えること」よりも「分かち合うこと」。私たちはお金、健康、仕事の成功などに物質的なものに多くの関心を持ちますが、物質的なものを求めることはしばしば空腹感を残します。ある日、物質的なものがすべての問題を解決できないことに気づいた時、精神的な価値を考え始めます。喜び、友情、感情、これらのものは人と人との間で直接分かち合うことによって得られるものです。

今日、イエスがパンを増やす奇跡の中で、神さまの恵みが浮き彫りにされます。イエスはパンと魚の秘跡によって、自分の命を分かち合うことを連想させました。これは感謝の祈りのもう一つの意味でもあります。私たちが神の言葉を分かち合う時、もはや空腹を感じることはなく、すべての人が満たされ、新しい世界が開かれるのです(イザヤ25:6)。人々が自我と所有欲を捨て、他者と無条件に分かち合う時、奇跡が起こります。すべての人が満腹し、さらに有り余るのです。このようにして、ヨハネは彼の共同体と私たちに、物質的なパンの問題が感謝の祈りと密接に関連していることを伝えています。

今日、イエスがパンを増やす奇跡の中で、神さまの恵みが浮き彫りにされます。イエスはパンと魚の秘跡によって、自分の命を分かち合うことを連想させました。これは感謝の祈りのもう一つの意味でもあります。私たちが神の言葉を分かち合う時、もはや空腹を感じることはなく、すべての人が満たされ、新しい世界が開かれるのです(イザヤ25:6)。人々が自我と所有欲を捨て、他者と無条件に分かち合う時、奇跡が起こります。すべての人が満腹し、さらに有り余るのです。このようにして、ヨハネは彼の共同体と私たちに、物質的なパンの問題が感謝の祈りと密接に関連していることを伝えています。

年間第16主日 忙しさ (7月21日2024年) ジョン神父 

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ 6:31)

多くの人は時間に追われ、家族と過ごす時間が後回しになってしまっています。その主な理由は「忙しい」からです。しかし、家族を後回しにする理由は、本当に「忙しい」だけでしょうか?現代社会では、技術の進歩発展により私たちはますます忙しくなっています。SNS、電子メール、インスタントメッセージ、これらのツール、手段は本来私たちの生活を便利にするためのものでしたが、いつの間(ま)にか私たちの時間を奪ってしまっています。三歳くらいの子供を見ている親が、タブレットやスマホを子供に渡して自分は別のことをする光景を目にします。家族三人が一緒に座っていても、それぞれが自分のスマホを見ていて、そこにほとんど会話がないということもあります。家族と学校や仕事のことを話すのも楽しみの一つです。聴くこと、話し合うこと、そのものが感情を深める最良の方法ではないでしょうか。これを実現するためには、まず自分の心を静かにし、自分の生活の状態を省みる(かえりみる)こと、必要に応じ(おうじ)て周りの人とお互いの思いを分かち合うこと、シェアすることが重要です。個人の成長は自己の反省から始まります。

        イエスの弟子たちは仕事から戻って急いで報告しようとしましたが、イエスは彼らに休息が必要だと言いました。それは体の休息だけでなく、心と精神の休息でもあります。今日の福音からは弟子たちの情熱が伝わります。彼らは今日何が起こったのか、どんな人に会ったのかを熱心に話しました。しかしイエスは「まずは人里離れた所、人が少ない場所で休息しなさい」と言いました。そこでは、人は自然にゆっくりと過ごすようになります。これは神の声を聴く基本の姿勢であり、神と良好な関係を保つ手助け(てだすけ)になります。自己の反省はすべてのクリスチャンが必要とすることです。毎日の仕事が終わった後、自分を静かな状態に保つのです。弟子たちの心は静寂に包まれます。この時重要なのは、イエスが憐れみの心を持たれたことです。(マルコ6:34)静かな時間は、宣教の最初の目的と現状を弟子たちに省みさせます。もし弟子たちが憐れみの心を失ったら、すべての宣教は無意味になってしまいます。憐れみの心を保つことは、最初の情熱を保つことです。憐れみの心は最大の宣教の原動力です。

主の兄弟姉妹の皆さん、私たち一人ひとりが生活の歩みのペースを落とし、スローダウンし、時には立ち止まって、今とスタート時の違いを省みる必要があります。あなたが何らかの問題を抱えている場合、スタート時の自分を思い出す必要があるでしょう。忙しい中で静寂を見つけ、静寂の中で進むべき方向を見つめ直すことを学びましょう。忙しい生活の中で足を止め、反省し歩みを調整することは、私たちが生活のバランスを取り戻すだけでなく、家族や神様との関係をさらに親密にすることに繋がります。それぞれの静寂の時を見つけ、神の恵みと愛を感じることができますように。

年間第15主日 引き算(ひきざん)する生き方 (7月14日2024年) ジョン神父 

現代人は多くの場合、「これがあったら幸せになれる」、「あれが買えたら幸せになれる」、 「好きな人が自分のパートナーになれば幸せになれる」など、手に入れることに幸せを感じます。しかし、イエスが弟子を選んだ際の教えは「引き算する生き方」つまり、持たざることでした。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履き物は履くように、そして下着は二枚着てはならない。」(マルコ6:8−9) 現代の私たちには驚きかもしれません。イエスは弟子たちが空腹で働くことを心配しなかったのでしょうか? ア旧約聖書の預言者アモスの生涯の中に、この疑問の答えがあります(アモス7:12−15)。アモスはただの羊飼いで、いちじく桑を栽培していました。そんなアモスがどうして預言者になれたのでしょうか?アモス自身が説教に価値をもたらしたからです。それは清貧の生活です。清貧の生活を送る人は欲に屈することがなく、自由であり、語る言葉に説得力があります。

アモスの時代の王は贅沢な生活を送り、神殿の中には不正と欺瞞、特権が蔓延していました。 すべての宗教儀式は取引に変わりました。そんな中、神はアモスを選びました。彼は貧しい青年でしたが、誰に媚びることなく、大胆に神の言葉を宣言することができました。王の顔色をうかがう必要もありませんでした。アモスから何も持たない弟子たちに至るまで一貫して、一つのテーマが浮かび上がります。それは「自由」 です。ある人は、「自由とは好きなことをすること」ではなく、「したくないことをしないで済むこと」だと言います。

弟子たちは福音を伝えるために遣わされた際、「引き算する生き方」で持ち物を少なくしました。財布も衣服もほとんど持っていませんでした。この習慣は、福音を伝える際に物質的な安心感に頼るのではなく、内面的に神への敬虔な心と信頼が必要であることを示しています。宗教にしろ社会にしろ、腐敗はまず物質的な欲望と追求から始まります。過度な物質的追求により、人は神への信頼を失い、世界のすべてが自分の努力によって成り立つと思い込み、生活の中で堕落してしまいます。

イエスの弟子たちは精神的にも物質的にも独立する必要がありました。なぜなら、彼らが本当に信頼すべきは、神の言葉だったからです。もし弟子たちが裕福な人の家にばかり滞在し、美味しい食事や飲み物に囲まれていたら、生活の安定を常に思い描き、自分の使命を忘れてしまったかもしれません。弟子たちは、彼らを遣わした神を信頼し、神への信頼ゆえに神の賜物を人々と分かち合うためにイエスの教え、「引き算する生き方」に従いました。「杖一本のほかは何も持って行くな」というイエスの杖は、神への信頼の印です。

イエスの弟子たちは精神的にも物質的にも独立する必要がありました。なぜなら、彼らが本当に信頼すべきは、神の言葉だったからです。もし弟子たちが裕福な人の家にばかり滞在し、美味しい食事や飲み物に囲まれていたら、生活の安定を常に思い描き、自分の使命を忘れてしまったかもしれません。弟子たちは、彼らを遣わした神を信頼し、神への信頼ゆえに神の賜物を人々と分かち合うためにイエスの教え、「引き算する生き方」に従いました。「杖一本のほかは何も持って行くな」というイエスの杖は、神への信頼の印です。

年間第14主日 とげ (7月7日2024年) ジョン神父 

「その日、霊がわたしの中に入り」 エゼキエル2:2

主は言われた 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。」「人の子」という言葉は、人が塵から出で、塵に帰って行く、限界のある弱い存在であることを意味します。ここで預言者は、自分の言葉ではなく、主からの言葉を伝える神の代表として描かれています。重要なのは、イスラエル人たちの反応です。イスラエル人たちは主の言葉を聞き入れることを拒み、エゼキエルに反論しました。しかし、預言者は依然として神の意志を実行しなければなりません。

第二朗読のパウロの手紙では(コリントニ12:7b-10),彼が特に自分の体にある「とげ」について強調しています。この「とげ」は彼にとって非常に苦痛でした。このとげがコリントの共同体からの排斥なのか、それとも他の障害なのかはわかりませんが、この「とげ」はパウロにとって常に苦しみであるとともに、彼が自分の弱さを認め、自分の弱さを喜んで誇ることをもたらしました。

今日のマルコ福音書でも(マルコ6:1-6),イエスが障害に直面し、自分の同郷の人々から嘲笑と拒絶を受ける姿が描かれています。イエスは安息日に福音を宣べ伝える際に大きな非難と妨害を受けました。同郷の人々はイエスにつまづきイエスに反感を抱くようになりました。最大の理由は、イエスの教えが彼らが長年受け継いできた伝統的な教えとは異なり、非常に新しいものであったため、彼らは受け入れることができなかったのです。イスラエル人は律法を厳守することに専念していましたが、そこに愛の行動はありませんでした。一方、イエスはいたるところで奇跡を行い、安息日にも愛の行動をしました。これらの行いはユダヤ人の伝統に反するものでした。その為、イエスは拒絶されたのです。

今日の三つの朗読をまとめると、「人の子」、パウロの指摘する「とげ」、そして福音書でのナザレ人のイエスへの拒絶の態度は、人間の中に存在する多くの問題を浮き彫りにしています。ナザレの人々は偏見に満ちており、教条主義への固執は、人を優越感に浸らせ傲慢にさせます。パウロの「とげ」も、コリントの共同体とパウロの間の人間性の問題を提示しています。エゼキエルの時代のイスラエル人も同様に預言者の言葉を聞くことを拒み、神様の忠告を拒否しました。

私たち自身も閉鎖的な生活を続ければ、ナザレ人のように新しいものを偏見の目で見てしまい、神の言葉を受け入れることができません。私たち一人ひとりに「とげ」があり、それはしばしば私たちを苦しめますが、「とげ」はまた、私たちにどんな状況にあっても神を信頼することを思い起こさせるものです。ですから、預言者エゼキエルに与えられた光のように、私たちも心を開いて神の言葉を受け入れ、自分の信仰を生きることが必要なのです。

私たち自身も閉鎖的な生活を続ければ、ナザレ人のように新しいものを偏見の目で見てしまい、神の言葉を受け入れることができません。私たち一人ひとりに「とげ」があり、それはしばしば私たちを苦しめますが、「とげ」はまた、私たちにどんな状況にあっても神を信頼することを思い起こさせるものです。ですから、預言者エゼキエルに与えられた光のように、私たちも心を開いて神の言葉を受け入れ、自分の信仰を生きることが必要なのです。

年間第13主日 信仰と癒し (6月30日2024年) ジョン神父 

「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。マルコ5:28

        兄弟姉妹の皆さん、今日は、マルコによる福音書にある力強い物語についてお話ししたいと思います。これは、十二年間、病で出血が止まらなかった女性の話です。多くの医者にかかり全財産を使い果たしましたが、彼女の病気は悪化するだけでした。この物語は、単なる体の癒しだけでなく、信仰、希望、そしてイエスの力について語っています。古代ユダヤ社会では、彼女の病気は儀式的に不浄とされ、彼女を普通の社会生活や宗教生活から切り離しました。多くの苦しみと挫折を味わったのにも関わらず、彼女は希望を捨てませんでした。イエスのことを聞いたとき、彼女は希望の光を見出しました。信仰に駆られて、彼女は群衆の中を進み、イエスの服の縁に触れました。するとすぐに、彼女は自分の体が癒されて行くのを感じました。この行動は、単なる体の接触ではなく、深い信仰の現れでした。彼女は、他のいかなる手段が失敗したときでも、イエスの力を信じました。

        イエスは自分の内から力が出て行ったことをすぐに感じ取り、群衆を振り返り、「わたしの服に触れたのは誰か」と言いました。そこで弟子たちは、「群衆があなたに押し迫っているのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか」と言いました。しかし、イエスはこの触れ方が他とは異なることを知っていました。それは信仰の触れ方でした。彼女は、自分が発見されたことを知って、恐れおののきながら前に出て、イエスにすべてを話しました。イエスの反応は、優しく、そして力強いものでした。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。あなたは癒された。」イエスは彼女の癒しを認めただけでなく、彼女の信仰を称賛し、「娘」と呼ぶことで彼女の尊厳を回復させました。

今日の福音の教え

信仰の持続:この女性の物語は、絶望的な状況でも信仰を持ち続けることが大事だと教えています。彼女の揺るぎない信仰が、彼女に癒しをもたらしました。

信仰の力:信仰は受動的なものでなく、神の力と愛を積極的に信頼することです。この女性の信仰は大胆で積極的であり、彼女を障害を乗り越え、イエスを求めることへと駆り立てました。

イエスの慈しみ:イエスのこの女性への対応は、信仰を持ってイエスを求める者たちへの慈しみと癒しの意思を示しています。

兄弟姉妹の皆さん、この勇気ある女性の信仰に励まされて、私たちも彼女と同じ信仰を持ってイエスに近づけば、イエスが常に私たちの信仰に応え、身体的な癒しだけでなく、心の平和と安心を与えてくれます。イエスが私たちを癒し、愛のうちに私たちを新しく造り変えてくれることを体験しましょう。

今日の福音の教え 信仰の持続:この女性の物語は、絶望的な状況でも信仰を持ち続けることが大事だと教えています。彼女の揺るぎない信仰が、彼女に癒しをもたらしました。 信仰の力:信仰は受動的なものでなく、神の力と愛を積極的に信頼することです。この女性の信仰は大胆で積極的であり、彼女を障害を乗り越え、イエスを求めることへと駆り立てました。 イエスの慈しみ:イエスのこの女性への対応は、信仰を持ってイエスを求める者たちへの慈しみと癒しの意思を示しています。

年間第12主日 「何を恐れていますか?」 (6月23日2024年) ジョン神父

弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言った マルコ4:38

赤ちゃんが生まれたとき、慣れ親しんだ母の胎内を離れる恐怖から泣き始め、母親が宥めるとようやく泣き止みます。私たちは一人でいることを恐れます。孤独が不安を引き起こすからです。暗闇の中を歩くことを恐れるのは、暗闇には何か恐ろしいものがいるように感じるからです。愛する人を失うことを恐れるのは、それが私たちを耐え難いほどの苦しみに追い込むからです。仕事に遅刻することを恐れるのは、上司に叱られることを心配するからです。友人が近づきすぎることを恐れるのは、かつて信頼していた人に裏切られた経験があるからです。拒絶されることを恐れるのは、過去に拒絶された傷が深く残っているからです。社会恐怖症は、私たちが見知らぬ人と話すことを恐れさせ、恐怖が私たちの最大の敵となります。恐怖は人を孤立させます。子供から大人まで、それぞれ恐怖は異なります。子供は試験に不合格になることを恐れ、大人は好きな人に告白することを恐れて、愛を表現する勇気が出ません。女の子は太ることを恐れ、職場では業績が悪いと見下されることを恐れます。年を取ると、病気になり治療が困難になることを恐れます。つまり、恐怖は私たちの生活の至る所に存在します。

今日の福音の中で、弟子たちもまた極度の恐怖を抱いていることがわかります。死への恐怖です。「先生!私たちは死にそうです。」弟子たちの反応とイエスの態度は対照的です。弟子たちは恐怖の中で「助けてください!」と叫びましたが、イエスは平然と眠っていました。イエスが目を覚まし、風を静めて言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(マルコ4:40)

今日の福音から私たちは二つのことを学ぶ必要があります。第一に、人生には順調な時だけでなく困難な時もあり、どんな状況に直面しても信仰を心に深く持っている必要があります。信仰を持っていれば私たちは落ち着いて平静に対処できるようになります。神への信仰は、どんな恐怖にも打ち勝つ力を与えてくれます。この信仰は、主が私たちと共にいるので、あらゆる苦しみ、病気、困難、逆境にも立ち向かえると教えてくれます。第二に、私たちは弟子たちのように、眠っているイエスを起こすことができます。神の存在を感じられない時、私たちは「イエス様、助けてください。もう耐えられません」と叫ぶ必要があります。私たちは、人生の嵐に打ち勝つための力を神に祈り求めましょう。

弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。マルコ4:38 社会恐怖症は、私たちが見知らぬ人と話すことを恐れさせ、恐怖が私たちの最大の敵となります。恐怖は人を孤立させます。 Social phobia makes us afraid to talk to strangers, and fear becomes our greatest enemy. Fear isolates people. 社交恐惧症让我们害怕与陌生人交谈,恐惧成为我们最大的敌人。恐惧使人孤立。 怀着信赖之心将会战胜恐惧。

年間第11主日 種を蒔く人 ジョン神父 (6月16日2024年) The Parables of the Seed

そのとき、イエスは人々に言われた「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」 マルコ4:26−27

今日の福音ではイエスは種のたとえを用いて、生活の真実を理解する手助けをしています。農夫にとっては、このたとえは理解しやすいでしょう。まず、種は非常に小さく、目立たないですが、土に種をまくと、非常に大きな植物に成長します。すべての偉大な事業は小さなものから始まるということです。小さな種には巨大な潜在能力があり、種の内部の成長のは目を見張るものがあります。平凡な人に見えても、内面には豊かな才能が潜んでいるかもしれません。しかし、社会はしばしば平凡な人や弱者を無視し、権力のある人々を追い求めます。

次に、種の成長はゆっくりとしており、時間と忍耐が必要です。毎日少しずつ進展があります。これもまた、待つということかもしれません。時には、私たちは静かに待つことを学ぶ必要があります。落ち着いて、種が芽生え、成長するのを見守ることが必要です。忍耐強く待つことが予想を超える収穫をもたらすでしょう。しかし、現代社会では、人々は待つことを好まない傾向があります。彼らは結果をすぐに見たがります。焦りは一般的な心理的疾患になっており、不安定な気持ちを和らげるために、すぐに満たされることを常に期待してしまいます。バスを待っている時の焦りや、ネットで注文した商品をすぐに手に入れたい焦りは、焦りの典型的な例です。ファーストフード文化は結果を強調し、プロセスを無視します。しかし、このような心の状態は心の病気を引き起こす恐れがあります。多くの人が眠れないために薬を必要としています。

今日の福音では、イエスが小さくて成長が遅いという種の特性を用いて、天国の秘跡を描写しています。実際、イエスが語った種のたとえは福音の種を指しています。神の言葉を聞くことで、私たちは自分の人生どのように生きるか理解することができます。神の言葉は希望と喜び、永遠の命をもたらします。イエスの言葉は時に、静かに待つことが必要であることを教えています。落ち着いて、種が芽生え、成長するのを見守ることが大切です。このように待つことが予想を超える収穫をもたらします。待つためには、静寂、黙想、そして祈りが欠かせません。私たちはキリストとの対話の時間を取り、聖霊の導きを受け入れるために霊的な雰囲気を作り出す必要があります。そして、このたとえを私たちの生き方に取り入れることができます。

私たちは、速いリズムの生活の中で自分自身をゆっくりと歩ませることを学ぶのです。遅いリズムの生活の中で、私たちは生活の真実を発見するかもしれません。要するに、結果でなく、生活の過程、プロセスこそが私たちが本当に必要とするものです。生活をじっくりと味わわないと、この世を去る時に何も残らないかもしれません。誰かが言ったように、人生の美は小さな善い経験の積み重ねにあります。今日特に、イエスは私たちに神のことばを受け入れるように招いています。この福音の種を私たちの心に根付かせ、育て、私たちを神の光の下で生きさせ、成長させて、天にいる鳥たちがその木陰に棲むようにしましょう。

種の成長はゆっくりとしており、時間と忍耐が必要です。毎日少しずつ進展があります。これもまた、待つということかもしれません。時には、私たちは静かに待つことを学ぶ必要があります。落ち着いて、種が芽生え、成長するのを見守ることが必要です。

年間第10主日 自己矛盾 ジョン神父 (6月9日2024年) Contradiction

「国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない」マルコ3:24-25

私たちは皆、この「自己矛盾」という言葉を聞いたことがあります。自分自身に対しても、他人に対しても、どこか、何か、違和感を覚える。気持ちがしっくりしない感じ。気持や考え方などが自分の中で、相手の間で一致しない。ずれがある。多くの場合、私たちはこのような自己矛盾の環境の中で生活しており、何を、どう選択するか、どう生きるか迷うことがよくあります。正しい選択をするのは困難です。例えば、ある若い男女がお見合いして、短い交際を経って、お互いをよく知らないまま結婚した。この男性は年齢そのほかの事情とさまざまな周囲の圧力により、気が進まないまま結婚した。この女性も最初から相手に対して反発する気持ちがあり、結婚を断りたかったが、いくつかの理由で、抵抗のある結婚

を受け入れた。その結果何年もしないうちにこの二人は離婚し、お互い悔いが残った。

このような反発、拒否、矛盾、排他的な心の動き、態度は、今日多くの人々が直面している課題です。特に個人の成長においては、この点に特に注意が必要です。好きではないことを無理にやるのは非常に矛盾しています。内心の反発、抵抗は私たちを喜んで受け入れることを妨げます。しかし、様々な周囲の圧力により、私たちは自分を犠牲にして受け入れることがあります。 

今日の福音の中で、律法学者たちはイエスが悪魔の力を借りて悪霊を追い出していると言いますが、この言葉自体が矛盾しています。悪魔は邪悪な存在であり、悪魔の仕事は邪悪と矛盾を作り出すことです。イエスの存在は希望、真実、美しさ、喜びをもたらしました。イエスは確かに人となって、天の父のもとからこの世に来られたのです。

私たち一人ひとりが神の子供であり、神から生まれたのです。私たちの生活は希望、喜び、光、真実に満ちたものであるべきです。私たちの日々の生活の中でどう生きるべきかという選択の場面では、内なる声に耳を傾ける必要があります。内なる声は神の声を聞くことができ、矛盾した感情や選択から遠ざけてくれます。自分の心に喜びをもたらさない選択に対して、勇気を持って「ノー」と言うことが大切です。これが心の成長の始まりです。ですから、今日の福音の最後に、誰が本当のイエスの母や兄弟姉妹なのかイエスが語っています。それは、神の言葉を聞き、神のみ心を行う人たちです。私たちが心を込めて神のみことばを聞き、生活の中の矛盾を取り除いて、神の子供として成長していきますよう神の恵みを祈り求めましょう。

自己矛盾 (6月9日2024年) Contradiction

私たち一人ひとりが神の子供であり、神から生まれたのです。私たちの生活は希望、喜び、光、真実に満ちたものであるべきです。私たちの日々の生活の中でどう生きるべきかという選択の場面では、内なる声に耳を傾ける必要があります。内なる声は神の声を聞くことができ、矛盾した感情や選択から遠ざけてくれます。自分の心に喜びをもたらさない選択に対して、勇気を持って「ノー」と言うことが大切です。これが心の成長の始まりです。ですから、今日の福音の最後に、誰が本当のイエスの母や兄弟姉妹なのかイエスが語って(かたって)います。それは、神の言葉を聞き、神のみ心を行う人たちです。 

キリストの聖体 (6月2日2024年) Corpus Christi

ジョン神父

『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』マルコ14:24

旧約聖書の時代には神との契約にイスラエルの民は、牛、羊、などの動物を神に捧げましたが、イエスが来られたとき、この契約は動物の捧げ物からイエス自身に変わりました。これが私たちが今日キリストの聖体を祝う主要な意味、目的です。イエスによる新しい契約はイエス自身の血で父なる神と結ばれ、それは神の血であり、受け入れるすべての人に与えられます。このイエスの新しい契約の血はすべての人を愛してすべての人を救うために流されたのです。

感謝の祭儀は個人のためでなく共同体の宴であり、裂かれたパンを兄弟姉妹と分かち合うものであり、二人以上でなければなりません。なぜなら、共同体こそが復活した主キリストの命に生まれる新しい人類のしるしだからです。イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これは私の体である』(マルコ14:22)使徒たちは、イエスのこれらの行動と言葉の意味を理解する能力がありました。イエスは自身の全生涯を人類のために裂かれたパンとして贈り物にし、今や使徒たちにイエスご自身の父なる神への奉献と人類の救いの道を分かち合い、イエスと一つの体となり、その命を分かち合うように招いています。

今、私たちは感謝の祭儀に参加することの意味を理解しています。その意味はイエスと一体となって、イエスのようにどんな時でも裂かれたパンとなり、兄弟姉妹に仕えるという新しい生き方を選び、決意することです。すべての人が受け入れられるべきであり、誰も排除されるべきでありません。神にとって、清浄の人と不浄の人、価値のある人とそうでない人の区別はありません。聖体の前では、すべての人が平等であり、すべての人が罪人であり、神にふさわしい人はいません、すべての人がキリストとの交わりに招かれています。

「あなたが食べるものがあなたになる」という言葉を聞いたことがありますか?パンはキリストの体であり、ぶどう酒はキリストの血であり、キリストと互いに共通の血縁を持つ共同体を創造し、新しい人類を創造します。私たちがミサに参加してこのパンを食べ、このぶどう酒を飲むことは、私たち内面的な成長と変化をもたらします。消極的な人はキリストの聖体によって、より積極的になり、内面が温かくなり、キリストの兄弟姉妹となります。他の人と接するとき、他の人は私たちから温かさを感じるでしょう。しかし現実は厳しいです。クリスチャンは信仰を持って長い間過ごしていても、人と接するときに冷たい人がいるようです。本当のクリスチャンは、このパンを食べ、このぶどう酒を飲むことで、イエスの苦難と復活を共有し、キリストの復活の命に新たに生まれ、温かさと愛に満ちた人になるのです。これが今日私たちがキリストの聖体の主日を祝う意味です。願わくば、主が私たち一人ひとりを祝福し、血と肉と愛を持つ人に造り変えて、神を証しする者にしてくださいます

キリストの聖体 (6月2日2024年) Corpus Christi

三位一体  Holy Trinity (5月26日2024年)

生命は生まれたその日に目標を持ちます。なぜなら、生命は単に死ぬために生きるのではないからです。現実の世界では、誰もが夢を持っています。子供の頃は、健康に成長し、勉強に励み、将来は良い大学に入り、良い会社に就職することを望みます。夢を実現するためには努力が必要です。例えば、畑や花を育てる経験がある方なら、自分が植えたものが成長するかどうかを常に気にかけています。そして、花が咲いたり実がなったりすると、とても嬉しく感じます。夢や農作業も同様で、必ずしも実現するとは限りませんし、成果が出るとは限りません。しかし、結果よりも大切なのは、その過程での経験です。農作業には忍耐が必要であり、夢を追いかけるには努力が必要です。多くの人が努力しても、必ずしも願いが叶うわけではありません。

愛もまた、相手に同じように愛してもらうことを求める必要はありません。神が人類を愛するように、私たちが神を愛することを強制されることはありません。無条件に愛することが真の愛です。愛は与えることであり、農作業や花を育てることも同様です。すべての努力が実を結ぶわけではありません。大学受験や恋愛においても、相手が応えてくれるとは限りません。それでも、私たちが生きることの本質は愛することなのです。

人類の歴史の中で、三位一体の神の特性は愛です。何千年も、人類がどれほど神に反逆し罪を犯しても、神は人類を見捨てない、愛し続けています。これが三位一体の最も偉大なところです。父は人類を愛するために宇宙万物を創造し、私たちと共有しました。父は愛の源です。子は人類を愛するためにこの世に来て、私たちのために十字架にかかりました。聖霊は私たちを愛するために私たちのそばに来て、共にいてくれます。愛は無私であり、平和に共存し、互いにコミュニケーションを取り、信頼し、理解し合うことです。三位一体の神が喧嘩をすることは決してありません。彼らの唯一の目的は、私たちの生命に愛の種を育てることです。

最後に、すべての兄弟姉妹の命に神が与えた愛の種が絶えず成長するように願いましょう。周りの人を愛し、違いを受け入れ、協力し合い、コミュニケーションを取り、互いに理解し、愛する方法を学びましょう。『主よ、私に成長することを教えてください。命のすべての成長の時を大切にし、成功も失敗もすべてあなたの祝福であることを理解できますように。』

三位一体 Holy Trinity  (5月26日2024年)

聖霊降臨の主日 (5月19日2024年)

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しするのである。(ヨハネ16:27)

ジョン神父

聖霊という言葉を聞くと、多くの人が少し戸惑うかもしれません。「父」は理解でき、「子」はイエスを指すことも理解できますが、「聖霊」となると少し難しく感じることがあります。今日は、できるだけ簡単な言葉で聖霊について説明します。神学的な言葉を避けて、分かりやすくお伝えたいんだと思います。 

まず、目を閉じて、1分から3分間深呼吸をしてみてください。そうすると、体が徐々に落ち着いてくるのを感じるでしょう。自分の呼吸を感じ、静かな場所にいれば心臓の鼓動さえも感じるかもしれません。簡単に言うと、あなたは生きているのです。呼吸をし、感じることができる。多くの場合、体は生きているけれども、心が死んでいるように感じたり、無気力になったりします。多くの人が人生に対して消極的で悲観的になり、長い間笑顔を見せていないことがあります。これは、実は聖霊の不在を意味しています。

旧約聖書の創世記2章7節には、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。呼吸(息吹)があるということは、あなたが霊的な存在であることを示しています。これが聖霊です。呼吸は見えませんが、なくては生きられません。神はすべての人に息を与え、この世界で生きることを許してくださっています。この息の中には霊が宿っており、人はただ生きるだけでなく、生命の目的を持って生きているのです。簡単に言えば、生命の意味です。食べ物はただ死なないためではなく、意味のある生活をするためにあります。毎日ただ食べるために生きていると感じるなら、生命に何かが欠けていると感じるでしょう。すべてのものに霊があります。この聖霊の息は、私たちが自分の生命の意味を生きるように促してくれます。

この時点で、私は皆さんに聖霊のもう一つの側面をお伝えします。それは「生命の情熱」です。教会の言葉では多くの神学的な言葉が使われるため、理解が難しいかもしれません。例えば、「愛、喜び、平和、寛容、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制」などです。しかし、個人的には「知恵」『カリスマ』という一言がすべての美徳を含んでいると考えます。知恵が理解しにくいなら、情熱として理解してください。生命に対して喜びを持ち、積極的に生き、自分を愛し、他人を尊重することです。自分の周りの人々や環境があなたの存在によって美しく、幸せになることです。私にとって聖霊とは、人々や環境があなたの存在によって美しくなることだと考えています。聖霊は常に人を積極的にさせてくれます。自分が消極的な時期や困難な時でも、自分の力ではなく聖霊の導きに頼ることで楽観的に前向きに生きることができます。それが聖霊です。

最後に、私たちの命の中に常に聖霊がとどまるように祈りましょう。知恵の光を輝かせ、心に情熱の炎を保ち、生活し、どんな困難にも挑戦する勇気を持ちましょう。

霊降臨の主日 (5月19日2024年)