沿革

 1938年矢切50番地に鳴海教会司祭館の竣工式が行われた。一階の応接間が仮聖堂と定められた。風光明媚な場所であり、大名古屋市の近郊で緑も多い住宅地でありました。プロ野球発祥の野球場も近くにありました。最初の主任司祭に任命されたバイエル師は、にこにこしながら語っておられたとのこと。家具も何もないけれど、近所の子供たちが遊びに来たり、研究者も2,3名たずねてこられました。野球が好きな方も、散歩が好きな方もおいでください、と。続いて任命されたマチョシェック師は、教会献堂技術に秀でた方のようで、師は岡崎へ新しい教会を立て、後を教区へ、関神父にゆだねられた。

 新らしい主任司祭に任命された望師。神父さまは、信者からはわれらのおやじさんとの声もあり多くに親しみをもたれていた。音楽の才能豊かでまたスポーツマンでありました。多くのイベントで音曲の司式を取られていました。中学生、高校生とキャッチボールをし、卓球などスポーツに汗をながしました。恵方町教会と試合をすることもありました。

CBC声楽家もミサに来られることもありました。クリスマスの徹夜パーティには若手のバイオリン奏者の演奏も多かったです。世界的バイオリニスト、豊田耕一郎(?)さんもヨーロッパへ行く前夜鳴海教会へ泊って歓談されたとのことでした。ミサの後の関神父の演奏で歌う聖歌が楽しみでした。大みそかの夜、教会で鐘を108回鳴らしたこともありました。

緑ヶ丘教会のヤマス神父様が音楽指導される様は関神父を彷彿とさせます。一緒に音楽を楽しむことです。関師は伊藤先生(元中学の先生)の協力を得て、病苦に耐えながらも1986年『解放の神学』を出版されたことは記憶にあたらしい。

戦地での体験から、伝統的な宗教の枠づけを外し、人間の無心な心に納得できる生き方を実践されました。カトリック学生連盟を立ち上げ、伊勢湾台風被災者救済時も若者と共に東奔西走の日々。1962年銀祝には、ルルドの聖母像と池が庭に造られ、 1973年には相馬教区長により由井滋師が叙階、翌年鳴海教会助任に任命された。

 1975年第4代主任として由井滋師、現在の司祭館、信徒館、聖堂が堂された。由井師時代に入ると信徒会結成、働く青年(JOC)の活動支援、障害者グループ支援。長崎五島方面からの信徒数も増え、教会学校も神学生やカテキスタ志願者など若手を採用し活気ある教会となった。

平日は修道院でのみミサ、市民運動や社会活動の為由井師不在。他方、

 1998年石脇慶總師を 5代主任司祭7年間(協力司祭3管理者5年)

信徒会他組織的に運営、種々任意小グループ誕生。修道院で早ミサ、教会で10時ミサがあり後 勉強会開催。

教区司祭志願者誕生(現在の浅井師)。

こんなおめでたい話もありました。

 ハイメシスネロス師 6代主任時代2年間。初めての外国人司祭の司牧で双方 馴染むのに時間を要したが、週2日は教会に泊まり、夜の勉強会など開催。日曜日には有志で会食交流。フィリピン人グループの参加が多くなり、多国籍の人々と共に、持ち寄り会食、余興など子供たち、若者と共に、地域の人々を招き、『オープンハウス』と称して、年1回の交流会を楽しんだ。この催しは、庭でミサも捧げたり、工夫をしながら後日も続けられた。

 2009年 ジョルディギタル師 7代主任時代4年間。霊性の深さや人柄は人をひきつけたが、聖書も『神様の愛』を感じるところ以外はパスして読みなさい。との説もあった。悲しみの時、師の接し方には大きな慰めを得たという。

 ヤマスジュゼップ師 8代主任時代。2013年より現在。ヤマス師の歌唱力、♪音楽指導は格別である。

 マルセリフォンツ師 助任司祭。2017年より・鳴海と緑ヶ丘教会の主任を兼任。

ベトナム人実習生への配慮ある司牧で新しい時代にこたえようとしています。師はスペイン語圏のミサ、教誨師他小教区外での司牧活動も多い。東洋の霊性に惹かれたとの師らしくミサの始まる前に皆で黙祷の時間が取り入れられている。現状、マルセリーノ神父様により昔の若々しさが取り戻されつつあります。将来は約束され緑ヶ丘教会とともに音楽が鳴り響き、騒がしい新しい世界が作られるでしょう。新しい音曲も、オンライン情報発信がその道具になるに違いない。

★ ジョン・シュエ神父 第10代主任時代。2023年より現在。